久留倍官衙遺跡公園

この町の物語

聖武天皇の東国行幸と久留倍官衙遺跡

 聖武天皇は、天平 12年( 7401019日に、「造伊勢国行宮司」を任命すると、 23日には「御前長官」「御後長官」「前騎兵長官」「後騎兵長官」といった行幸の列の指揮官である「次第司」を任命するとともに騎兵を 東西史部(やまとかわちのふひとべ)・秦忌寸から400人を徴発し、29日には行幸に出発している。しかし、時は藤原広嗣の乱の最中であり、天皇は征討の大将軍大野東人に詔して「朕思う所があって、今月の末、しばらく関の東に往こうと思う。そのような時ではないと言っても、事はやめることはできない。将軍これを知っても、驚き怪しまないように。」と伝えている。これ以前、天平9年には、春に筑紫からはじまって夏から秋にかけて天然痘が大流行し、藤原四子(藤原不比等の子、武智麻呂:南家、房前:北家、宇合:式家、麻呂:京家)が四人とも亡くなり、加えて中納言であった多治比縣守も亡くなっており、廟堂の上位者5人をいっぺんに失うことになったのである。結果、大蔵卿であった鈴鹿王が知太政官事に、橘諸兄は中納言を経ずして大納言に任じられ、藤原氏からは武智麻呂の長子豊成がわずかに参議に列するのみとなった。橘諸兄政権下では、唐より帰国した下道(吉備)真備や僧玄昉が重用され、広嗣は時政の得失を陳べ、この二人を除くよう上表し、その4日後には大野東人を大将軍以下の人事が行われており乱平定に向けて差し向けられている。
 そのような最中に行われた行幸であるが、 1029日に出発して 5日目の 113日に広嗣逮捕の報( 1029日発)を、 119日処刑の報( 115日発)を、ともに河口の頓宮において受けている。そののち赤坂の頓宮に至って陪従の人々の行賞を行っている。その後、朝明郡に入り 2泊しており、『万葉集』には現在の四日市市域で詠まれたとみられる歌が 4首収載されている。『続日本紀』には「朝明郡」と記し、『万葉集』には「朝明行宮」「狭残行宮」と記載される。
 この赤坂から不破までは壬申の乱の行路と一致し、不破では騎馬兵を解いていることなどから、現在ではこの行幸の意味を 3つに分けて考えるのが一般的となっている。以前には、この聖武天皇の東国行幸を、聖武天皇が広嗣の乱におびえて逃げ出したとする説(彷徨説)が行われていたが、まず第一の赤坂までを 113日に大神宮に奉幣していることから、これを広嗣の乱の平定を祈るためのものであるとか、これから行う恭仁京への遷都の報告とかと解釈する説が行われている。
 次の赤坂から不破までは、騎馬兵 400騎を伴っての行幸であり曾祖父の大海人皇子が壬申の乱の際に通った道であり、大海人皇子は不破から先には進んでいないので、そこで騎馬兵を解いており、まさに壬申の乱の追体験をしたものであろうというのが一般的理解であろう。
 また、不破から恭仁宮までは、まさに遷都のための行幸でありが、ここに一つ問題がある。『続日本紀』 1215日の条には「皇帝在前幸二 恭仁宮一。始二レ作京都一矣。太上天皇・皇后在後而至。」と記載されている。「在前」「在後」という語はあまり見ないものであるが、同じ 126日、この日の条に同じように橘諸兄が恭仁郷を経略するため先に行く件に「在前」の語が用いられており、この語について『新日本古典文学大系』本では注が付せられて「先発し」と訳している。なぜこのことが問題となるのかは、恭仁京に行幸する際に、説が二通りあるからである。
 一は、聖武天皇は行幸のまま恭仁宮に入る。太上天皇・皇后は平城京にあって、後から恭仁宮に入ったとするもの。
 一は、聖武天皇は行幸で先発して恭仁宮に入って、太上天皇と皇后は遅れて恭仁宮に入ったということになる。
 つまり、後者だと、太上天皇と皇后は行幸の列に従っていたことになる。ガイダンス施設の展示の中では、後者をとって、行幸のイラストには輿を3基書き入れている。
 

 以下に、『万葉集』に収載された四日市市内で詠まれた歌と『続日本紀』の現代語訳を収載する。
 
 

『万葉集』(算用数字は、国歌大観番号)

 

【原文】天皇御製歌一首

1030 
妹尓恋(いもにこい) 吾乃松原(あがのまつばら) 見渡者(みわたせば) 潮干乃滷尓(しほひのかたに) 多頭鳴渡(たづきなわたる)
右一首、今案、吾松原在三重郡、相去河口行宮遠矣。若疑御在朝明行宮之時
所製御歌、伝者誤之歟。
【現代語訳】 聖武天皇の御製一首
1030 
妻を恋しく思って私が待っている、吾(あが)の松原から見渡すと、干潟に鶴が鳴き渡って行く。
右の一首は、今考えてみると、吾の松原は三重郡にあって、河口の行宮からは遠く離れている。あるいは、吾の松原に程近い朝明の行宮に居られた時に御作りになった歌を、伝えた者が誤ったのであろうか。
 

【原文】丹比屋主真人歌一首

1031 
後尓之(おくれにし) 人乎思久(ひとをしのはく) 四泥能埼(しでのさき) 木綿取之泥而(ゆふとりじでて) 好住跡其念(さきくとそおもふ)
右、案、此歌者不有此行之作乎。所以然言、勅大夫従河口行宮還京、勿令従駕焉。何有詠思泥埼作歌哉。
【現代語訳】丹比屋主真人の歌一首
1031 
後に残った人を偲ぶことだ。思泥(しで)の崎で木綿(ゆふ)を垂らして無事であってほしいと切に願う。
右は、考えてみると、この行幸の時の作ではないであろう。理由は、既に大夫(丹比屋主真人)に勅命を下して河口の行宮から都に帰らせ、以後お供をさせていないからである。その大夫がどうして思泥の崎を歌に詠むことがあろうか。
 

【原文】狭残行宮、大友宿祢家持作歌二首

1032 
天皇之(おほきみの) 行幸之随(みゆきのまにま) 吾妹子之(わぎもこが) 手枕不巻(たまくらまかず) 月曾歴去家留(つきそへにける)
【現代語訳】狭残(ささ)の行宮で大伴宿祢家持が造った歌二首
1032 
天皇の行幸のままお供して、我が妻の手枕をしないで月を経てしまった。
 

【原文】

1033 
御食国(みけつくに) 志麻乃海部有之(しまのあまならし) 真熊野之(まくまのの) 小船尓乗而(をぶねにのりて) 奥部榜所見(おきへこぐみゆ )
【現代語訳】
1033 
御食つ国の志摩の海人であるらしい。熊野の小船に乗って沖の方を漕ぐのが見える。
 
 以上の4首が四日市市域で詠まれたとみられる歌であるが、10301031番にはすでに左注が指摘にしているような問題がある。1030番は左注の示すとおりとすれば解決するのかも知れないが、1031番は解決していない。この問題については近年、岡田登氏が「後(おく)れにし人」を「後に残った人」ではなく、「大津皇子」のこととして、壬申の乱の故事を詠んだものとして事前に用意された歌と解釈されている(「壬申の乱及び聖武天皇伊勢行幸と北伊勢―朝明郡家跡の発見を契機としてー」皇學館大学史料編纂所所報『史料』191号)。
 1033番のなぜ伊勢の国に志摩の海人がという疑問が出る。これについても岡田登氏が志摩は口分田が少なく、伊勢・尾張2国の田を班給しているがため(『続日本紀』神亀28月壬寅21日の条)として理解されている(同前)。さらに、市大樹氏は志摩国の荷札木簡について考察するとともに、この歌の「御食つ国」の語に重きを置いて、ほかの御食つ国の詠まれた歌との比較などによって、聖武天皇の行幸に合わせて志摩の国から贄が献上されたことを詠んでいるのではないかと解釈されている(「御食国志摩の荷札と大伴家持の作歌」『万葉集研究』第33集)。
 

『続日本紀』

 

A)行幸以前

1.神亀4年(72854
(聖武天皇が)甕原離宮(みかのはらのとつみや)に行幸された。
*現在の京都府相楽郡加茂町に置かれた離宮(後の恭仁京の置かれた地)
 
2.同5
天皇、南野の榭(うてな)におわしまして飾騎(かざりうま)・騎射(うまゆみ)をご覧になられた。
*榭…屋根のある四阿。
*5月5日に騎射を行う。
 
3.同6
車駕(きょが)(天皇)、甕原宮より平城京に還られた。
 
4.天平8年(73631
甕原離宮に行幸された。
 *3月3日は曲水の宴
 
5.同5
車駕、宮に還られた。
 
6.天平9年春
疫瘡(えきそう)が大流行した。初め筑紫より広まってきて夏から秋まで流行した。公卿から一般庶民までもが次々に死にました、その数を数えることもでない。近来より今まで無かったことです。
*疫瘡…疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)、天然痘のこと。
 
7.天平11年(73932
天皇、甕原離宮に行幸された。
 
8.同5
車駕、宮に還られた。
 
9.同年3月23日
天皇と太上天皇(元正)と、甕原離宮に行幸されました。外従五位上坂上伊美吉犬養(さかのうえのいみきいぬかい)に従五位下を授けられた。
 
10.同26
車駕、宮に還られた。
 
11.天平12年(740510
天皇、右大臣(橘諸兄)の相楽別業(さがらのべちごう)に行幸された。宴飲酣暢(たけなわ)なるときに、大臣の息子で無位の奈良麻呂に従五位下を授けられた。
*別業=別荘
 
12.同12
車駕、宮(平城宮)に還えられた。

B)藤原広嗣の乱と東国行幸    行幸  藤原広嗣の乱

1.天平12年(740)8月29日
大宰少弐従五位下、藤原朝臣広嗣、表をたてまつって時の政治の批判し、天災地異が起こったのも政治が悪いからだと陳述した。よって僧正玄昉法師、右衛士督従五位上下道朝臣真備を除くこと上表した。
 
2.同年9月3日
広嗣遂に兵を起して反(そむ)いた。勅(みことのり)して、従四位上大野朝臣東人を大将軍とし、従五位上紀朝臣飯麻呂を副将軍とされた。軍監・軍曹各四人。東海・東山・山陰・山陽・南海の五道の軍一万七千人を徴発して東人らに委ね、節刀を持して討たさせた。
*節刀…出征する将軍等に天皇が賜る刀。天皇から大権を委任することを象徴する刀。
 
3.同4日
隼人廿四人を御在所に召された。右大臣橘宿祢諸兄、勅も旨を宣(の)りて位を授けたが、各々に差が有った。併せて位階に合わせた服を賜わって発遣された。
 
4.同5日
従五位上佐伯宿祢常人、従五位下阿倍朝臣虫麻呂らに勅してまた発遣し、軍事に任用した。
 
5.同15日
四機内・七道の諸国に勅して「この頃、筑紫の境に不道な臣下があることによって、軍に命じて討伐せる。ここに願わくば神仏の力によって国民を安んずることを欲っす。故に今、国ごとに高さ7尺の観世音菩薩1躯を造り、同時に観世音経10巻を写経せよ」とおっしゃられた。
 
6.同21日
大将軍大野朝臣東人らに勅して曰く「(東人の)奏上の内容によって、遣新羅使の船が戻ってきて長門国に停泊していることを知った。その船の荷物はその国に蔵(おさ)め、使の中に採用すべき人があれば将軍が任用せよ。」と申された。
 
7.同24日
大将軍東人らは「賊徒である豊前国京都(みやこ)鎮長大宰の史生従八位上小長谷常人と企救(きく)郡板櫃(いたひつ)鎮小長凡河内田道(しょうちょうおほしかふちのたみち)を殺しました。ただし、大長三田塩籠(だいちょうみたのしおこ)は、箭(や)二隻を着(つ)けて野のうちに逃れ隠れています。登美(とみ)・板櫃・京都の3か所の営兵1,767人を捕虜にしました。武器17事ありました。なお、長門国豊浦郡少領外正八位上額田部広麻呂(ぬかたべのひろまろ)を差(つかわ)して、精兵40人を将(ひき)いて今月21日に関門海峡を渡らせました。また、勅使従五位上佐伯宿祢常人(つねひと)、従五位下安倍朝臣虫麻呂らを遣わして、隼人24人を合わせて4,000人の兵を率いて今月22日に渡らせて、板櫃の営を鎮圧しました。東人らは今後も長門にやって来るはずの兵も率いて続いて渡らせます。間諜(うかみ)が申して言いますには「広嗣は遠呵(をか)郡の郡家に軍営を構え、弩(おおゆみ)を儲けています。そして、狼煙をあげて国内の兵を徴発しています。」と言っています。」と申し上げた。
*鎮…軍団の兵士
*事…1事=50
*間諜(かんちょう)…敵の情報を集めて味方に通報する者、間者、スパイ。
 
8.同25日
大将軍東人らが申しますには「豊前国京都郡大領外従七上楉田勢麻呂(しもとたのせまろ)は兵500騎を、仲津(なかつ)郡擬少領(ぎしょうりょう)无位膳東人(かしはでのあずまひと)は兵80人を、下毛郡擬少領无位勇山伎美麻呂(いさやまのいみまろ)、築城(ついきの)郡擬領(ぎりょう)外大初位上佐伯豊石は兵70人を率いて官軍に合流してきました。また、豊前国百姓豊国秋山(とよくにのあきやま)ら逆賊三田塩籠を殺しました。上毛郡擬大領紀乎麻呂(きのおまろ)はら3人はともに謀って賊徒の首4級を斬りました。」と申しました。
 
9.同29日
筑紫府(つくしふ)の管内の諸国の官人や人民に勅しておっしゃられるには「逆賊の広嗣は少年時代から凶悪で、成長してからは一層顕著になった。その父、亡き式部卿(藤原宇合)はいつも廃嫡したいと欲していたが、朕それを許さず覆い隠して今に至ってしまった。最近になって、親族を誹謗したため、改心することを願って遠いところに遷した。今聞きますに、「好き勝手に狂い暴れ、人民を擾乱している」と聞いている。不孝不忠にして天に違い地に背くものであり、神祇も捨てさるところであり、滅ぶべきことはいつもであった。以上は、すでに乱勃発の当初に勅符として筑紫府管内諸国に知らしめたところである。また聞いているところでは「あるいは逆賊があって、初めの勅符を送付する使いを捉えて害して広く見られないようにした」と聞いている。それ故、さらに勅符数千条を遣わして諸国に広く人民に配布する。勅符を見たなら、みな承知しなさい。もしも、広嗣と心を同じくして謀反を起こしてしまったが、今心を改め過ちを悔い、広嗣を斬り殺し人民をやすめしめば、無位の者でも五位以上を賜い、官人にはもともと持っている位階に応じて五位よりさらに昇叙しよう。もし本人が殺されたらば、その子孫に賜いましょう。忠臣義士たちよ、速やかに行動しなさい。大軍が次々と立ち入るのはこのような理由から知っておきなさい。」とおっしゃった。
*筑紫府=大宰府
 
10.同10月9日
大将軍東人に詔(みことのり)して、八幡神に祈りを捧げさせた。大将軍東人ら申すには「逆賊藤原広嗣は1万騎ばかりの兵を率いて、板櫃河にやってきました。広嗣はみずから隼人を率いて先鋒としてやって来て、木を編んで船として河を渡ろうとしました。その時、佐伯宿祢常人(つねひと)・安倍朝臣虫麻呂、弩を発射したところ、広嗣軍は退いて河の西に連ねていました。常人ら兵6,000人以上を率いて河の東に並んでいました。そして隼人らに呼び掛けて曰く「逆賊広嗣に従って官軍を拒むもの者は直ちにその身を滅ぼすだけではなく、罪は妻や子、親族にまで及ぶことになる」といいました。広嗣が率いる隼人や兵士たちは敢えて箭を放たなかった。時に、常人ら広嗣を呼ぶこと10回に及んだが、なお答えはなかった。やや久しくしてから広嗣が馬に乗って出て着て曰く「勅使が到来したと承りました。その勅使はどなたでしょうか。」と。常人ら答えて云わく「勅使衛門督佐伯大夫、式部少輔安倍大夫、今ここにあり。」と。広嗣が云うには「今、勅使であることを知りました。」と。広嗣は馬から降りて両段再拝して云うには、「広嗣は、敢えて朝廷の命令を拒むことは致しません。ただ、朝廷を乱す人間、二人(玄昉と下道真備)を除くことを請うただけです。広嗣が敢えて朝廷の命令を拒むようであれば天神地祇よ罪によって殺したまえ。」と言った。常人らは「勅符を与えむがために、大宰の典(さかん)(四等官)以上を呼んだのに、なぜ兵を起して攻めてきたのか。」と。広嗣は答えることが出来ずに馬に乗って退き還って行った。その時、隼人3人急いで河の中より泳いできて服属した。朝廷の遣わせた隼人らが助け救いて遂に岸に到着することが出来た。すなわち、服属してきた隼人は20人、広嗣軍の兵士からは10騎ばかり官軍に服属してきた。捕虜と武器の類は別に記すとおりである。また、降伏してきた隼人贈唹(そお)君多理志佐(たりしさ)が申して云うには「逆賊広嗣が謀っていうには『三方の道より行こうと思う。すなわち、広嗣みずからは大隅・薩摩・筑前・豊後などの国の軍隊合わせて5,000人を率いて、鞍手道(くらてぢ)(現、直方市を経由する道)より行こうと思う。綱手(つなて)(藤原宇合の第4子)は筑後・肥前等の国の軍隊合わせて5,000人ばかりを率いて豊後の国より行け。多胡古麻呂(たごのこまろ)、率いる郡の数を知らず。田河道(たかわぢ)より行け。』という」と申しました。
 
11.同10月19日
造伊勢国行宮司を任命した。
 
12.同23日
次第司を任命した。従四位上塩焼王を御前長官とし、従四位下石川王を御後長官、正五位下藤原朝臣仲麻呂を前騎兵大将軍、正五位下紀朝臣麻呂を後騎兵大将軍、騎兵の東西史部・秦忌寸ら惣て四百人を徴発した。
 
13.同26日
大将軍大野朝臣東人らに勅していわれますに、「朕思う所があって、今月の末、しばらく関の東に往こうと思う。そのような時ではないと言っても、事はやめることはできない。将軍これを知っても、驚き怪しまないように。」と。
 
14.同29日
伊勢国に行幸された。知太政官事兼式部卿正三位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大将正四位下藤原朝臣豊成を留守官とする。この日、山野辺竹谿村堀越に到って頓宿された。
 
15.同30日
車駕、伊賀国名張郡に到られた。
 
16.同年11月1日
伊賀郡安保の頓宮に到って宿泊された。大雨が降って道がぬかるみ人も馬も疲かれた。
 
17.同2日
伊勢国壱志郡河口の頓宮に到られた。これを関宮という。
 
18.同3日
少納言従五位下大井王にあわせて中臣・忌部らを遣して、幣帛を大神宮にたてまつられた。車駕、関宮に停られること十箇日。
 
19.是の日
大将軍東人ら言うには「進士无位阿倍朝臣黒麻呂が、今月23日に逆賊広嗣を肥前国松浦(まつら)郡値嘉嶋(ちかのしま)長野村に捕獲えました」と。詔して報へて申されますに「今、10月29日の奏を覧て、逆賊広嗣を捕えたことを知った。その罪顕露にして疑うことは何もない。法に従って処決し、その後に奏聞しなさい。」と。
 
20.同4日
和遅野(わぢの)(三重県一志郡白山町)に遊獦されました。当国の今年の租を免除された。
 
21.同5日
大将軍東人らが申ますには「今月1日に肥前国松浦郡にすでに広嗣・綱手を斬ることを終えました。菅成以下従者と僧侶2人は身柄を拘禁し大宰府へ置きました。それらの名簿は添付の通りです。また、今月3日に軍曹海犬養五百依(あまのいぬかいのいほえ)を遣わして逆賊を迎え討たせました。広嗣の従者、三田兄人(みたのえひと)ら20余人申して言うには「広嗣の船、知賀嶋を発して東の風を利用して往くこと4日目で嶋がみえてきた。船上の人が云うには『これは躭羅嶋(たむらのしま)(済州島)だ』と、さらに東風が吹き進むことが出来ずに漂うこと1昼夜を経て、今度は突然西風が吹き始め、さらに強く吹いて船を元に戻してしまった。そこで、広嗣はみずから駅鈴を捧げて言うには『我は大いなる忠臣である、なのに神霊は我を捨てるのか。乞い願わくば、神の力によって風波をしばらく静かにならんことを』と言って鈴をうみに投げ入れた。しかし、なお風波いよいよ激しくなって、遂に等保知賀(とほちか)嶋の色都(しこつ)嶋に漂着した」と申しました。広嗣は式部卿馬養(うまかい)の第1子でした。
 
22.同12日
河口より発して壱志郡に到って宿泊された。
 
23.同14日
鈴鹿郡赤坂頓宮に到着された。
 
24.同21日
詔して、付き従った文武の官とあわせて騎兵と子弟らとに爵を人ごとに1級を上げられた。ただし、騎兵の父は付き従わなくても、爵2級を上げられた。従二位橘諸兄に正二位を授けられた。(中略)外少初位上壱志君族古麻呂に並びに外従五位下を授けられた。
 
25.同22日
五位已上に絁(あしぎぬ)を賜いましたが、おのおの差有った。
 
26.同23日(今の暦で12月20日)
赤坂より発って朝明郡に到着した。
 
27.同25日
桑名郡石占(いしうら)に到って頓宿された。
 
28.同26日
美濃国当伎郡に到着された。
 
29.同27日
伊勢国の高年の百姓百歳已下七十歳已上の人に田租を賜わったが、おのおの差が有った。
 
30.同年12月1日
不破郡の不破の頓宮に到着した。
 
31.同2日
宮処(みやこ)寺と曳常(ひきつね)泉とに行幸された。
 
32.同4日
騎兵司を解いて京に還らせた。聖武天皇は美濃国を巡り、国の様子をご覧になった。日暮れに新羅楽・飛騨楽が奏された。
 
33.同5日
美濃の国郡司と百姓の行幸に奉仕した人に位1級を賜らった。正五位上賀茂朝臣助に従四位下を授けた。
 
34.同6日
不破より発して坂田郡の横川に到って頓宿された。是の日、右大臣橘宿祢諸兄、先発して、山背国相楽(さがら)郡恭仁(くに)郷を整備しました。遷都についてあらかじめ準備をするがためです。
 
35.同7日
横川より発して犬上に到着し頓宿された。
 
36.同9日
犬上より発して蒲生郡に到着し宿泊された。
 
37.同10日
蒲生より発して野洲に到着して頓宿された。
 
38.同11日
野洲より発して志賀郡禾津(あわづ)に到着し頓まられた。
 
39.同13日
志賀山寺に行幸して仏をおがまれた。
 
40.同14日
近江の国郡司に位1級を賜わった。
「外従六位上調連馬養に外従五位下を授けられた。」*
禾津より発して山背国相楽郡玉井に到って頓宿された。
*「外…授けられました」までの一文、『続日本紀』では7日と9日の間につくる。
 
41.15日
皇帝先に恭仁宮に行幸された。京都を作り始めるか。太上天皇(元正)・皇后(光明)は、後から到着された。