久留倍官衙遺跡公園

この町の物語

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壬申の乱と久留倍官衙遺跡

 天武天皇元年(672)に壬申の乱は勃発しました。兄である天智天皇の皇太弟であった、大海人皇子と同太上大臣であった天智の息、大友皇子との間で起こった皇位をめぐる古代最大の内乱でした。
 『日本書紀』によると、天智天皇の譲位の申し出を辞退した大海人皇子は、出家して吉野に逃れ仏道修行を行っていましたが、近江朝廷(大友皇子)側が天智天皇の山陵を造ると称して兵を起しているとの報がもたらされ、大海人皇子は挙兵を覚悟します。急ぎ、東国に向けて出発し、伊賀・伊勢を抜け、不破に至っています。戦況は一進一退を繰り返しますが、最後には宇治橋の決戦いで勝利した大海人皇子側が勝利をおさめます。
 その間、大海人皇子は三重郡を過ぎ、朝明郡の迹太川のほとりで天照大神に戦勝祈願し、その後朝明郡の郡家に到ると記されており、それが現在の久留倍官衙遺跡の場所であった可能性が指摘されています。
 
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聖武天皇の東国行幸と久留倍官衙遺跡

 聖武天皇は、天平12年(7401019日に、「造伊勢国行宮司」を任命すると、23日には「御前長官」「御後長官」「前騎兵長官」「後騎兵長官」といった行幸の列の指揮官である「次第司」を任命するとともに騎兵を東西史部(やまとかわちのふひとべ)・秦忌寸から400人を徴発し、29日には行幸に出発している。しかし、時は藤原広嗣の乱の最中であり、天皇は征討の大将軍大野東人に詔して「朕思う所があって、今月の末、しばらく関の東に往こうと思う。そのような時ではないと言っても、事はやめることはできない。将軍これを知っても、驚き怪しまないように。」と伝えている。これ以前、天平9年には、春に筑紫からはじまって夏から秋にかけて天然痘が大流行し、藤原四子(藤原不比等の子、武智麻呂:南家、房前:北家、宇合:式家、麻呂:京家)が四人とも亡くなり、加えて中納言であった多治比縣守も亡くなっており、廟堂の上位者5人をいっぺんに失うことになったのである。結果、大蔵卿であった鈴鹿王が知太政官事に、橘諸兄は中納言を経ずして大納言に任じられ、藤原氏からは武智麻呂の長子豊成がわずかに参議に列するのみとなった。橘諸兄政権下では、唐より帰国した下道(吉備)真備や僧玄昉が重用され、広嗣は時政の得失を陳べ、この二人を除くよう上表し、その4日後には大野東人を大将軍以下の人事が行われており乱平定に向けて差し向けられている。
 
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