久留倍官衙遺跡公園

この町の物語

壬申の乱(現代語訳)

A)壬申の乱前夜

『日本書紀』巻第28 

1.天智天皇10年(671年)10月庚辰(17日)

 天皇は重体におちいられ、勅して東宮(大海人皇子)を召して寝室に呼び入れ、詔して「私の病は重い。あとのことはお前にまかせる」と言われた。しかし東宮は天皇をおがみたてまつりて、病を理由に固辞してこれを受けず、「天下のことはすべて大后(おおきさき)(倭姫王)におまかせになり、大友王(おおとものおおきみ)に政務の万端を執り行わせなさいませ。私は天皇のおんために、出家して仏道修行したいと思います。」と申し上げた。天皇がこれをお許しになると、東宮は立ち上がり、内裏の仏殿の南に出て、胡床(あぐら)(床几(しょうぎ)に腰をかけてひげや髪をおそりになり、沙門(ほうし)の姿におなりになった。そこで天皇は、次田生磐(すきたのおいわ)を遣わして袈裟をお贈りになった。
 

2.同年同月壬午(19日)

 東宮は天皇にお目通りし、吉野に入って仏道修行したいと願った。天皇はこれをお許しになった。東宮はただちに吉野にお入りになり、大臣たちはこれを見送って、菟道(うじ)から引き返した。
 

3.同年11月丙辰(23日)

 大友皇子は、内裏の西殿の織(おりもの)の仏像の前におでましになり、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)臣・右大臣中臣金連および蘇我果安(はたやす)臣・巨勢人(こせのひと)臣・紀大人(きのうし)臣がこれに侍した。大友皇子は手に香鈩(こうろ)をとり、まず立ち上がって、「この六人は、心を同じくして天皇の詔の旨に従うであろう。もしそれに違うようなことがあれば、必ず天の罰を被るであろう。」とお誓いになった。そこで、左大臣蘇我赤兄臣らも、手に香鈩をとって順序に従って立ち上がり、涙を流しつつ、「臣ら五人は、殿下とともに天皇の詔の旨に従うであろう。もしそれに違うようなことがあれば、四天王がわれわれを打ち、天地の神々もわれわれを誅罰することでしょう。三十三天(仏の守護神)よ、どうかこのことをはっきりとお知りおきください。子孫も絶え、家門も必ず滅びることでしょう。」と誓いあった。
 

4.同年12月乙丑(3日)

天皇は近江宮にお崩(かく)れになった。

B)大海人皇子、吉野に入る

『日本書紀』巻第28

1.天武天皇即位前紀(天皇の人となり)

 天皇は、生来優れた資質があり、成人してからは武勇にたけ、天文・遁甲(占星術の一種)の才能もおありになった。
 

2.天武天皇即位前紀

(天智天皇10年)冬10月庚辰(17日)に、天皇(天智天皇)は病に伏し、苦痛が激しかったので、蘇我臣安摩侶(やすまろ)を遣わせて東宮を召し、御殿におまねき入れになった。かねて東宮に好意をもっていた安摩侶は、ひそかに東宮をふりかえり「おことばに御用心なさいませ」と申し上げた。東宮は、何か陰謀があるのではないか、と御警戒になった。
 天皇は、東宮に勅して皇位を授けようとされた。しかし、東宮はこれを辞し、「残念なことに、私はもともと病気がちでございます。国家を保っていくことはできそうにございません。どうか陛下、天下のことはすべて皇后(倭姫王)におまかせになり、大友皇子を儲君(もうけのきみ)(皇太子)にお立てなさいませ。私は今日から出家の身となり、陛下のために仏事を修めようと思います。」と申し上げた。天皇はお許しになった。東宮は、その日のうちに出家し、僧の身なりをし、私有の武器を残らず集めて官司に納めた。
 

3.同年同月壬午(19日)

 東宮は吉野宮にお入りになることになった。左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連、および大納言蘇我果安臣らは、東宮を見送って菟道までいき、そこから引き返した。「虎に翼を着けて放すようなものだ。」という人もあった。夕方、東宮は嶋宮(しまのみや)(明日香村)にお着きになった。
 

4.同年同月癸未(20日)

 東宮は吉野にお着きになり、そこに落ち着かれた。このとき、東宮は、舎人(とねり)たちを集め、「私は、仏の道を修めようと思っている。それゆえ、私と一緒に仏の道を修めようと思うものはここに留まれ。官人として身を立てようと思う者は、戻って官司に仕えるがよい。」と言われたが、退出する者は一人もなかった。そこでいま一度舎人を集め、同じように言われたところ、舎人の半数は留まり、半数は退出した。

C)挙兵の決意

1.同年同月

 この月に、朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)が天皇(大海人皇子)に、「私用で美濃に参りますと、朝廷は、美濃と尾張の国司に、『山陵を造るから、差し出す人夫を定めておけ』と命じておりました。ところが、その人夫のひとりひとりに武器を持たせておるのでございます。山陵を造るのではありますまい。きっと何か事変があるでしょう。早くお避けになりませんと、御身に危難が及ぶのではありますまいか。」と申し上げた。また、「朝廷は、近江京(大津)から倭京(飛鳥)にいたる道のあちこちに監視を置き、また菟道橋の橋守に命じて、皇大弟の宮(大海人皇子)の舎人が私用の食料を運ばないようにしております。」と告げる人もあった。天皇は、こうしたうわさを気にして調べさせたところ、事実であるとお知りになった。ここに天皇は詔して、「私が皇位を辞して身を退(ひ)いたのは、独りで療養に努め、天命を全うしようと思ったからだ。それなのに、今、否応なく禍を被ろうとしている。私の身が滅ぼされようというのに、どうして黙っておられようか。」と言われた。
 

2.同年同月壬午(22日)

 天皇は、村国連雄依(むらくにのむらじおより)・和珥部臣君手(わにべおみきみて)・身毛君広(むげつきみひろ)に詔して、「近江の朝廷の廷臣たちは、自分を亡き者にしようと謀っているとのことだ。おまえたち三人は、急いで美濃国にいき、安八磨郡(あぱちまのこほり)の湯沐令(ゆのうながし)の多臣品治(おおのおみほんじ)に機密をうちわけ、まずその郡の兵士を挑発せよ。さらに国司たちにも連絡し、軍勢を発して、急いで不破(ふわ)の道を塞げ。自分もすぐ出発する。」と言われた。
 

3.同年同月甲申(24日)

 東国に出発なさろうとしたとき、ある臣が、「近江の廷臣たちは、もともと策謀にたけております。きっと国中に妨害をめぐらし、道路も通りにくくなっていることでしょう。どうして一人の兵士もなしに、素手で東国に入れましょう。ことの成功はおぼつかないのではありますまいか。」と申し上げた。天皇はこの言に従って男依らを呼び戻そうとお思いになり、大分君恵尺(おおきだきみえさか)・黄書造大伴(きふみのみやつこおおとも)・逢臣志摩(おうのおみしま)を、留守司の高坂王(たかさかのおおきみ)のもとに遣わし、駅鈴を求めさせた。天皇は恵尺らに「鈴が得られなかったら、志摩はすぐに戻って報告せよ。恵尺は馬を馳せて近江にいき、高市皇子(たけちのみこ)・大津皇子(おおつのみこ)を呼び出し、伊勢で自分と落ち合うようにせよ。」とお命じになった。やがて、恵尺らは留守司に着き、東宮の命令であるといって、駅鈴を授けるよう高坂王に乞うたが、王は許さなかった。そこで、恵尺は近江へ向かい、志摩は直ちに戻って、「鈴は得られませんでした」と報告した。

D)東国への出発

1.この日(24日)

 天皇は出発して東国にお入りになった。急なこととて乗り物もなく、徒歩でお出かけになったが、ほどなく県犬養連大伴(あがたいぬかいのむらじおおとも)の乗馬に出会ったので、これにお乗りになった。皇后(鵜野(うのの)皇女)は、輿に載せてお従わせになった。津振川(つぶりがわ)(吉野郡吉野町津風呂)に着くころ、やっと天皇の乗馬が追いついたので、これにお乗りになった。このとき、天皇に最初から従った人々は、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁(おさかべの)皇子、および舎人の朴井連雄君・県犬養連大伴・佐伯連大目(さえきのむらじおおめ)・大伴連友国(おおとものむらじともくに)・稚桜部臣五百瀨(わかさくらべおみいおせ)・書首根摩呂(ふみのおびとねまろ)・書直智徳(ふみのあたいちとこ)・山背直小林(やましろのあたいおばやし)・山背部小田(やましろべのおだ)・安斗連智徳(あとのむらじちとこ)・調首淡海(つきのおびとおうみ)など二十人あまり、それに女孺(めのわらわ)(皇子側近の女官)十人あまりであった。
 その日のうちに、菟田(うだ)の吾城(あき)(奈良県宇陀郡大宇陀町)に着いた。大伴連馬来田(おおとものむらじまくた)と黄書造大伴とが、吉野宮から一行に追いついた。このとき、屯田司(みたのつかさ)(天皇の供御米をつくる屯田の経営にあたる官司)の舎人、土師連馬手(はじのむらじうまて)が天皇の従者たちの食事をたてまつった。甘羅村(かんらのむら)(大宇陀町の北部)を過ぎると、二十人余りの猟師がおり、大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)がその首領であったので、みな召し集めて一行に従わせた。
 また、美濃王(みののおおきみ)を徴(め)したところ、さっそくにやって来て一行に従った。湯沐(ゆ)の米を運ぶ伊勢国の馬五十匹と菟田郡家(うだのこおりのみやけ)(宇陀郡榛原)の前で出会ったので、米をみな棄てさせ、徒歩の者をそれに乗せた。大野(宇陀郡室生村大野)に着くと日が暮れ、山が暗くて進めないので、村の家の垣根を壊し、それを燭(ひともし)とした。真夜中頃、隠郡(なばりのこおり)(伊賀国名張郡)に着き、隠駅家(なばりのうまや)を焼いた。そして村の中に、「天皇が東国にお入りになる。それゆえ、人夫として従う者はみな出てこい」と呼ばわったが、独りも来ようとはしなかった。横河(名張川か)にさしかかると、黒雲があり、広さ十余丈(1丈≒3.3m)ほどで天をよぎっていた。天皇はこれを不思議に思われ、ともし火をかかげてみずから式(ちく)(筮竹(ぜいちく))を手にとってお占いになり、「天下が二つに分かれようとするしるしだ。しかし、自分が最後には天下を得るであろう。」と言われた。そこで行軍を急いで伊賀郡(いがのこおり)に着き、伊賀駅家(上野市付近か)を焼いた。伊賀中山にさしかかるころ、伊賀国の郡司(こおりのみやつこ)たちが、数百の軍兵をひきいて天皇に帰服した。
 

2.夜明けに(25日)

 莿萩野(たらの)(伊賀市伊賀町)に着き、しばらく行軍を中止して食事をした。積殖(つむえ)の山口(伊賀市柘植)に着くころ高市皇子が鹿深(かふか)(滋賀県甲賀郡)を越えて天皇の一行におちあった。
 民直大火(たみのあたいおおひ)・赤染造徳足(あかそめのみやつことこたり)・大蔵直広隅(おおくらのあたいひろすみ)・坂上直国麻呂(さかのうえのあたいくにまろ)・古市黒麻呂(ふるいちのくろまろ)・竹田大徳(たけだのだいとく)・胆香瓦臣安倍(いかごのおみあへ)が従っていた。やがて大山(鈴鹿山地の加太(かぶと)越え)を越え、伊勢の鈴鹿に着くと、伊勢国司守(こくのみこともちのかみ)の三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)、介(すけ)の三輪君子首(みわのきみこびと)、および湯沐令(ゆのうながし)の田中臣足麻呂(たなかのおみたりまろ)・高田首新家(たかだのおびとにいのみ)らが、鈴鹿郡(郡家(ぐうけ)は関町加太か)で一行を迎えた。そこで、五百人の軍兵を発し、鈴鹿の山道の守りを固めた。川曲(かわわ)の坂本に着くと日が暮れた。皇后がお疲れになったので、しばらく輿をとめて休息したが、空がにわかに暗くなり、雨が降りそうになったので、ゆっくりと休息することができずに出発した。やがて空気が冷え、激しい雷雨となり、おともに従う者はみな衣服を濡らし、寒さにふるえた。そこで、三重郡家に着くと、小屋に火を放って冷えきった人々をあたたまらせた。真夜中ごろに、鈴鹿関の司が「山部王(やまべのおおきみ)と石川王(いしかわのおおきみ)とが帰服するためにやってまいりましたので、関にとどめてございます。」と報告した。天皇は、路直益人(みちのあたいますひと)を使いとしてお召しよせになった。
 

3.丙戌(26日)

朝、朝明郡の迹太川のほとりで、天照大神を望拝された。
※参考:翌年、天武天皇は皇女、大来皇女を斎王に選んでいるが、これ以降歴代天皇ごとに斎王が遣わされることとなるが、これを都の記録でも伊勢神宮の記録でも、この戦勝祈願のためと理解されていた。
 
 このとき、益人がもどってきて「関におられますのは、山部王と石川王とではございません。大津皇子でございます。」大津皇子は、益人に続いてすぐ到着した。大分君恵尺・難波吉士三綱(なにわのきしみつな)・駒田勝忍人(こまだのすぐりおしひと)・山辺君安麻呂(やまべのきみやすまろ)・小墾田猪手(おはりだのいて)・泥部胝枳(はつかしべのしき)・大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)・根連金身(ねのむらじかねみ)・漆部友背(ぬりべのともせ)らの人々が従っていた。天皇はたいへんお喜びになった。郡家(朝明郡家)に着こうとすると、さらに男依(村国男依)が早馬に乗ってかけつけ、「美濃の軍勢三千人を発して、不破道を塞ぐことが出来ました。」と報告した。天皇は雄依の功績をほめ、郡家に着くと、まず高市皇子を不破に遣わして軍事を監督させ、山背部小田と安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)とを遣わして東海(うみつみち)(東海道諸国)の軍を徴発させ、また稚桜部五百瀬と土師連馬手とを遣わして東山(やまのみち)(東山道諸国)の軍を徴発させた。この日、天皇は桑名郡家(桑名市多度町)におとまりになり、そこにとどまってお進みにならなかった。
 
(  中  略  )
 

4.丁亥(27日)

 高市皇子は使いを桑名郡家に遣わし、「御在所が遠く離れておりますと、軍の指揮をとるのに不便でございます。どうか近い場所においでいただきたい。」と申し上げた。そこで、その日のうちに、天皇は皇后をお留めになったまま、不破にお入りになった。郡家(不破郡垂井町か)に着こうとするころ、尾張国司の守の小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさいち)が、二万の軍兵をひきつれて天皇に帰順した。天皇は鉏鉤をほめ、その軍兵を分けて各方面の道の守りにつかせた。野上(のがみ)(関ヶ原町野上)に御到着になると、高市皇子が和蹔(わざみ)(関ヶ原)から出迎えて、「昨夜、近江朝廷からの早馬の使いがやってまいりましたので、伏兵を出して捕まえましたところ、書直薬(ふみのあたいくすり)と忍坂直大摩侶(おしさかのあたいおおまろ)とでございました。どこへ行くのだと尋ねますと、『吉野の大皇弟(もうけのきみ)を討つために東国の軍を徴発しに遣わされた、韋那君磐鍬(いなのきみいわすき)の配下の者です。しかし、磐鍬は、伏兵が現れたのを見て逃げ帰ってしまいました。』との答えでございました。」と申し上げた。これをお聞きになった天皇は、高市皇子に、「近江の朝廷では、左右の大臣や知略にたけた群臣が寄り集まって計略を立てているのに、自分には戦略を相談する相手がない。ただ年若い子どもがいるだけだ。どうしたらよかろう。」と言われた。すると高市皇子は腕をあらわにし、剣をしっかりと握りしめて、「近江の群臣がどんなにたくさんいようと、どうして天皇の霊威に逆らえましょう。天皇はお一人でも、臣高市が神々の霊威に頼り、天皇の命を承って、将軍たちを率いて彼らを征討するならば、敵がそれを防げるはずはございません。」と申し上げた。天皇は皇子をほめ、手をとり、背をさすって、「しっかりやれ。油断するではないぞ。」と言われ、乗馬を賜り、軍事のこといっさいを皇子におまかせになった。皇子は和蹔に帰り、天皇は行宮(かりみや)を野上に建ててそこにお住まいになった。この夜、激しい雷雨があった。天皇はうけいをされて、「天地の神々が私をお助けくださるなら、雷雨はやめ。」と言われたが、言い終わるとたちまち雷雨はやんだ。
※高市皇子=18歳  大津皇子=9歳
 

5.戊子(つちのえね)(28日)

 天皇は和蹔におでましになり、軍隊のようすを御検閲になってお帰りになった。
 

6.己丑(つちのとのうし)(29日)

 天皇は和蹔におでましになり、高市皇子に命じて兵士たちに号令させ、また野上にお帰りになった。

E)大伴吹負、飛鳥に蜂起す

1.この日(29日)

 大伴連吹負は、密かに留守司(るすのつかさ)の坂上直熊毛(さかのうえのあたいくまけ)(倭漢氏)と謀り、漢直(あやのあたい)の一、二の氏の人々に、「おれが高市皇子だと偽って、数十騎を率いて飛鳥寺の北の道から現れて軍営に向かったら、おまえたちは寝返るのだぞ」と言った。やがて吹負は、百済(くだら)(北葛城郡広陵町)の家で武器を整え、南の門から出発した。まず、秦造熊(はだのみやつこくま)に犢鼻(たふさぎ)(ふんどし)をさせると、馬に乗せて寺の西の軍営にかけこませ、「高市皇子が不破からお着きだぞ。軍勢がたくさん従っているぞ」と叫ばせた。このとき、留守司の高坂王と、徴兵のための使者の穂積臣百足らとは、飛鳥寺の西の槻(つき)の木の下に軍営をかまえ、百足だけは小墾田(おはりだ)の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしていたが、運営のなかの兵士は、熊の叫び声を聞いてみな逃げ散ってしまった。大伴連吹負は、十数騎を率いてそこに不意に現れた。熊毛をはじめ、漢直の人々はたちまち吹負につき、兵士たちもまた服従した。そこで、高市皇子の命令だと称して、穂積臣百足を小墾田の武器庫から呼び寄せた。百足は馬に乗ってゆっくりやって来た。飛鳥寺の西の槻の木の下まで来たところ、だれかが、「馬からおりろ」と言った。百足がぐずぐずして馬から降りないでいると、襟をつかんで引きずり落とされ、一つの矢が当たった。そして刀で斬り殺されてしまった。穂積臣五百枝(いほえ)・物部首日向(もののべのおびとひむか)(いずれも近江からの徴兵の使者)も捕えたが、しばらくして罪を許され、軍中におかれた。また高坂王と稚狭王(わかさのおおきみ)とを召し、軍に従わせた。吹負はさっそく大伴連安麻呂(おおとものむらじやすまろ)・坂上直老(さかのうえのあたいおきな)・佐味君宿那麻呂(さみのきみすくなまろ)らを不破宮(ふわのみや)(野上の行宮)に遣わして、ことのありさまを天皇に報告した。天皇はたいへんお喜びになり、吹負を将軍(いくさのきみ)に任命された。三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ)・鴨君蝦夷(かものきみえみし)ら、そのほか武力に長けた多くの者が、怒涛(どとう)のごとくみな将軍のもとに集まった。そこで近江を襲撃することを謀り、軍中の衆に優れた者をえらんで、別将(すけのいくさのきみ)(副将=別働隊の将)および軍監(まつりごとひと)(士官)とした。
 

2.庚寅(かのえとら)(7月1日)

 まず乃楽(なら)(奈良市)へと出発した。
 

3.秋七月の庚寅(かのえとら)の朔辛卯(かのとのう)(2日)

 天皇は、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)・多臣品治(おおのおみほんじ)・三輪君子首(みわのきみこびと)・置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣わして、数万の兵を率い、伊勢の大山(加太越)を越えて倭に向かわせた。また、村国連男依(むらくにのむらじおより)・書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)・胆香瓦臣安倍(いかごのおみあへ)を遣わして、数万の兵を率いて不破から出撃し、直接近江に進入させた。近江方の軍隊と見分けがつかなくなることのないように、赤いきれを衣服の上につけさせた。のち、別に多臣品治に命じ、三千の兵をひきいて莿萩野(たらの)に駐屯させ、また田中臣足麻呂(たなかのおみたりまろ)を遣わして、倉歴(くらふ)の道(三重県拓殖から滋賀県甲賀郡へ抜ける道)を守らせた。近江方は、山部王・蘇賀臣果安(そがのおみはたやす)・臣勢臣比等(こせのおみひと)に命じ、数万の兵を率いて不破を襲おうとし、犬上川(いぬかみのかわ)(滋賀県犬上郡・彦根市を流れる)のほとりに軍勢を集結させた。しかし、山部王が蘇賀臣果安・臣勢臣比等のために殺され、混乱して軍を進めることができず、蘇賀臣果安は犬上から引き返し、みずから頸を刺して死んだ。このとき、近江方の将軍羽田公矢国(はたのきみやくに)、その子大人(うし)らが、一族をひきつれて投降した。そこで将軍に任じ、北方、越の地方に入らせた。
これよりさき、近江方は精兵を放って玉倉部邑(たまくらべのむら)(不破郡関ヶ原町玉か)を急襲してきたが、出雲臣狛(いずものおみこま)を遣わして撃退させた。
 

4.壬辰(みずのえたつ)(3日)

 将軍吹負は乃楽山(ならやま)(奈良市北方の丘陵地帯)の上に駐屯した。そのとき、荒田尾直赤麻呂(あらたおのあたいあかまろ)は、将軍に、「古京(ふるきみやこ)(飛鳥)はわれわれの本拠地ですから、守りを固めねばなりません」と進言した。将軍はこれに従い、赤麻呂と忌部首子人(いんべのおびとこびと)とを遣わして、古京を守備させることとした。そこで赤麻呂らは古京に着くと、道路の橋の板を壊し、楯に作って京のあちこちの街角に立てて守った。
 

5.癸巳(みずのとのみ)(4日)

 将軍吹負は近江方の将軍大野君果安(おおのきみはたやす)と乃楽山に戦ったが、果安に敗れ、兵士はみな遁走し、将軍吹負もかろうじて逃れた。果安は追撃して八口(やくち)(未詳)に行ったが、小高いところに登って京を見ると、街角ごとに楯が立ててあった。果安は伏兵があるのではないかと疑って、やがてその軍を引き返した。
 

6.甲馬(きのえうま)(5日)

 近江の別将田辺小隅(たなべのおすみ)は、鹿深(かふか)の山を越え、旗を巻き、鼓を抱いて、ひそかに倉歴(くらふ)に進んだ。そして真夜中に、梅(くちき)(筒状のもので、話し声や馬のいななきを防ぐ)を人馬にふくませ、城柵を崩して、突然、田中臣足摩侶(たなかおみたりまろ)の軍営におどりこんだ。小隅の軍は、自分の兵と足摩侶の兵との区別がつかなくなるのを恐れ、人に出会うごとに「金(かね)」と言わせ(合言葉)、刀を抜いて討ちかかり、「金」と言わない者は斬った。足摩侶の軍は大混乱に陥り、あまりにも急なことでどうしようもなかった。しかし足摩侶だけは、すばやく合言葉だとさとり、「金」と言ってかろうじて脱出することができた。
 

7.乙未(きのとのひつじ)(6日)

 小隅はさらに進んで、莿萩野(たらの)の軍営を襲おうと殺到してきた。将軍多臣品治はこれを防ぎとめ、さらに精兵に追撃させた。小隅はひとり脱出して逃走し、以後、再び来襲することはなかった。
 

F)大津京陥落

1.丙申(ひのえさる)(7日)

 男依(村国男依)らは、近江の軍と息長(おきなが)の横河(よこかわ)(坂田郡米原町醒井付近か)で戦ってこれを破り、その将境部連薬(さかいべのむらじくすり)を斬った。
 

2.戊戌(つちのえいぬ)(9日)

 男依らはさらに近江の将秦友足(はだのともたり)を鳥籠山(とこのやま)(坂田・犬上郡界付近の丘陵地帯か)で討ち、これを斬った。この日(実際はもっと以前か)に、東道将軍(うみつみちのいくさのきみ)(伊勢から倭へ進軍する将)の紀臣阿閉麻呂らは、倭京将軍の大伴連吹負が近江方に敗れたことを聞き、軍兵をわけ、置始連菟に千騎余りを率いて倭京(やまとのみやこ)に急行させた。
 

3.壬寅(みずのえとら)(13日)

 男依らは安河(やすのかわ)(野洲川)のほとりで戦って近江方を大破し、社戸臣大口(こそべのおみおおくち)・土師連千嶋(はじのむらじちしま)を捕虜とした。
 

4.丙午(ひのえうま)(17日)

 栗太(くるもと)(栗太郡)の軍を討って追撃した。
 

5.辛亥(かのとのい)(22日)

 男依らはついに瀬田に到達した。このとき、大友皇子と郡臣(まえつきみたち)とは、橋の西に大きく陣を構え、その後方がどこまであるのか見えないほどであった。軍勢の旗旘(はた)は野を覆い、そのかき立てる埃塵(ちり)は天に届くほど、打ちならす鉦鼓(かねつづみ)の響きは数十里にとどろき渡り、矢は続けざまに放たれて雨のように降りそそいだ。近江方の将智尊(ちそん)は、精兵を率い、真っ先に立って防戦した。近江方は、橋の中ほどを三寸ばかり断ち切り、そこに一枚の長い板を置き、板を踏んで渡ろうとする者があれば、すぐさま板を引いて落そうとした。このため進攻できずにいると、勇敢な士、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)という者が、長い矛(ほこ)を捨て、甲(よろい)を重ねてつけ、刀を抜いて一気に板を踏んで渡った。稚臣は板に結ばれていた綱を断ち切り、矢をこうむりつつも敵陣に突入した。近江方の軍兵はたちまち乱れて逃げ散り、抑えようがなかった。将軍智尊は刀を抜いて逃げる者を斬ったが、とどめることができず、智尊は橋のほとりで斬られた。大友皇子・左右大臣らは、その身だけはかろうじて免れ、逃走した。男依らはそこで、粟津岡(あわづのおか)(大津市膳所)のふもとに軍隊を集結させた。同日、羽田公矢国と出雲臣狛は、共に三尾城(みおのき)(滋賀県高島郡)を攻め落とした。
 

6.壬子(みずのえね)(23日)

 男依らは、近江の将犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)と谷直塩手(たにのあたいしおて)とを粟津市(あわづのいち)で斬った。大友皇子はついに逃げ入るところがなく、立ち戻って山前(やまさき)(京都府乙訓郡大山崎町か)に隠れ、みずから首をくくって死んだ。このとき、左右大臣や郡臣はみな散り散りになり、わずかに物部連麻呂(もののべのむらじまろ)(のちの石上麻呂(いそのかみのまろ))と一、二の舎人だけが皇子に従っていた。

G)大和での激戦

1.これよりさき(71日)

 将軍吹負が乃楽(なら)に向かい、稗田(ひえだ)(大和郡山市稗田町)に行ったとき、「河内の方からたくさんの軍勢がやってまいります」と知らせる者があった。そこで吹負は、坂本臣財(さかもとのおみたから)・長尾直真墨(ながおのあたいますみ)・倉墻直麻呂(くらかきのあたいまろ)・民直小鮪(たみのあたいおしび)・谷直根麻呂(たにのあたいねまろ)に三百の兵士を率いて竜田(たつた)(生駒郡三郷町)を守らせ、佐味君少麻呂(さみのきみすくなまろ)に数百人を率いて大坂(おおさか)(北葛城郡香芝町。二上山の北の穴虫越)に駐屯させ、鴨君蝦夷(かものきみえみし)に数百人を率いて石手道(いわてのみち)(二上山の南の竹ノ内岬か)を守らせた。
 この日、坂本臣財らは平石野(ひらしのの)(未詳)に夜営したが、近江の軍が高安城(たかやすのき)(生駒郡と大阪府八尾市との境)にいるとの知らせを聞き、山を登った。近江の軍は財らの来襲を察知し、税倉(ちかくら)にことごとく火を放ち、みな逃げうせたので、財らは城の中で夜を明かした。
 

2.あけがた(2日)

 西の方を見ると、大津(おおつ)(長尾街道か)・丹比(たじひ)(竹ノ内街道か)の二つの道からたくさんの軍勢がやってくるのが見え、旗印もはっきりと見えた。誰かが、「近江の将壱伎史韓国(いきのふびとからくに)の軍勢だ」と言った。財らは高安城から山を降り、衛我河(えがのかわ)(石川)を渡り、韓国と川の西で戦ったが、財らの軍兵が少なく、韓国の軍を防げなかった。
 これよりさき、紀臣大音(きのおみおおと)が儇坂道(かしこざかのみち)(未詳。大坂と竜田の中間の岬か)を守るために派遣されていたので、財らは儇坂に退き、大音の軍営に入った。このころ、河内国司(こうちのくにのみこともち)の守来目臣塩籠(かみくめのおみしおこ)は、不破宮(大海人皇子)に帰順しようと思い、軍兵を集めていた。そこに韓国がやって来て、謀を漏れ聞いて塩籠を殺そうとした。塩籠はことが漏れたことを知って自殺した。
 

3.やがて中一日おいて(4日)

 近江の軍はすべての道から数多く来襲した。吹負の軍は防戦できず、みな退却した。この日、近江方に敗れた将軍吹負は、わずか一人二人の騎馬兵を連れて遁走した。ちょうど墨坂(すみさか)(宇陀郡榛原町西方の坂)までやって来たとき、菟(うさぎ)(置始菟)の軍が来るのに出会った。そこでまた引き返し、金綱井(かなづなのい)(未詳。橿原市今井町か)にとどまって、散り散りになった兵士を招集した。そのとき、近江の軍が大坂の道からやって来るとの知らせがあり、将軍は軍を率いて西に進み、当麻(たぎま)の村(北葛城郡当麻町)で壱伎史韓国の軍と、葦池のほとりで戦った。このとき、来目(くめ)という名の勇士がおり、刀を抜いて馬を駆り出し、まっしぐらに敵陣に突入した。騎兵がすぐこれに続き、遁走する近江の軍を追って、多くの兵士を斬った。そこで将軍は軍中に命令し、「この戦いは、もともと百姓(おおみたから)を殺すために始めたのではない。元凶を討てばよいのだ。みだりに殺してはならぬ」と言った。韓国は戦場を離れてひとり逃げ出した。これを遠くに見た将軍は、来目に命じて矢を射させたが、当たらず、韓国はついに脱出した。将軍が本営に帰ると、東方(伊勢)からの本体が続々と到着した。そこで軍を分け、それぞれ上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)の各道(奈良盆地を南北に貫く三本の道路)にあてて配置した。将軍吹負は、みずから中道にあたることになった。おりしも近江の将犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)が、中道を進んできて村屋(むらや)(磯城郡田原本町蔵戸)に駐屯し、別将盧井造鯨(いおいのみやつこくじら)に二百の精兵を率いさせ、将軍吹負の軍営を襲わせた。たまたま軍営には兵が少なく、防戦できなかった。このとき、大井寺(おおいでら)(村屋付近にあった寺院)の奴(やつこ)の徳麻呂(とこまろ)ら五人が従軍しており、真っ先に進んで敵を射たので、鯨の軍は進めなかった。
 いっぽうこの日、三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ)と置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)とは、上道の守りにあたり、箸陵(はしのはか)(桜井市箸中。崇神十年九月条参照)のほとりで戦って近江軍を大破し、勝ちに乗じて鯨の軍の背後を切断した。このため鯨の軍は散り散りとなって逃走し、多くの部下が殺された。鯨は白馬(あおうま)に乗って逃げたが、馬が泥田に落ち込み、動けなくなった。これを見た将軍吹負は、甲斐(かい)の勇者(たけきひと)(山梨県出身の勇士)に、「あの白い馬に乗っているのは、盧井鯨だ。急いで追って射よ」と命じた。甲斐の勇者は馬を馳せて鯨を追ったが、今にも鯨に追いつこうとしたとき、鯨が激しく馬に鞭(むち)をあてたので、馬は泥から抜け出し、駆けて免れることができた。将軍はまた本営に帰って兵を集めたが、これ以降、近江の軍は倭(やまと)には進攻してこなかった。これよりさき、金綱井に軍勢が集結した際、高市郡大領(たけちのこおりのみやつこ)の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)は、突然口を噤(つぐ)んで、ものを言うことができなくなった。
 

4.三日後(7日)

 神がかりの様子になって、「自分は、高市社(たけちのやしろ)(橿原市高殿町)におる、名は事代主神(ことしろぬしかみ)である。また身狭社(むさのやしろ)(橿原市見瀬町)におる、名は生霊神(いくみたまのかみ)である」と言い、神のことばとして、「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)(神武天皇)の山陵に、馬とさまざまの武器とをたてまつるがよい」と言った。さらに、「自分たちは皇御孫命(すめみまのみこと)(大海人皇子)の前後に立ち、不破までお送りして帰ってきた。今もまた、官軍のなかに立ってそれを守護しておる」と言い、「西の道から軍勢がやって来る。用心せよ」と言い、言い終わって神がかりの状態から覚めた。そこでさっそく許梅を御陵に参拝させ、馬と武器とを奉納し、また幣を捧げて、高市・身狭の二社の神を敬い祭った。すると、やがて壱伎史韓国が大坂から襲来したので、人々は、「二社の神が教えになった言葉が的中した」と言った。また、村屋の神(田原本町蔵戸)も祝(はふり)(神官)に神がかりして、「いまに自分の社の中の道から軍勢がやって来る。それゆえ、社の中の道を防げ」と言ったが、やはりいく日もたたずに盧井造鯨の軍が中の道から襲来した。人々は、「神の教えになったのは、このことだったのだ」と言った。戦いが終わったのち、将軍たちがこの三社のお教えになったことばを奏上したところ、天皇は勅して三神の位階を上げ、祭祀を行われた。

H)大海人皇子、大和へ凱旋

1.辛亥(かのとのい)(22日)

 将軍吹負は、倭(やまと)の地を完全に平定し、大坂を越えて難波に向かった。そのほかの別将たちは、三つの道(上道・中道・下道)をそれぞれ進んで山前(やまさき)(京都府乙訓郡大山崎町)に着き、川(淀川)の南に集結した(大友皇子自殺の前日)。将軍吹負は、難波小郡(なにわのおごおり)(迎賓施設)にとどまり、以西の諸国の国司たちに命じて官鑰(かんぎ)(税倉・武器庫の鍵)や駅鈴(すず)・伝印(つたいのしるし)(駅馬・伝馬を利用する際に用いる)を進上させた。
 

2.癸丑(みずのとのうし)(24日)

 将軍たちはことごとく筱(ささ)(筱 ここではササという)浪(なみ)(大津京一帯の地)に集合して、左右大臣や罪人どもを捜索・逮捕した。
 

3.乙卯(きのとのう)(26日)

 将軍たちは不破宮に向かい、大友皇子の首を捧げて、天皇の軍営の前に献じた。
 

4.八月の庚申(かのえさる)の朔甲申(きのえさる)(8月25日)

 天皇は高市皇子に命じて、近江の群巨の罪状を人々に宣告させられた。重罪八人を極刑(死刑)に処することとし、右大臣中臣連金を浅井(あさい)の田根(たね)(滋賀県東浅井郡)で斬った。
 同日、左大臣蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ)、大納言巨勢臣比等(こせのおみひと)、およびその子孫、それに中臣連金の子、蘇我臣果安(そがのおみはたやす)(自殺した御史大夫)の子をことごとく流罪に処した。それ以外の者の罪は、みな赦(ゆる)した。
 なおこれよりさき、尾張国司の守小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさいち)が、山に隠れて自ら命を断った。天皇は、「鉏鉤は軍功ある者だ。罪がないのになぜ自殺したのであろう。それとも、なにか隠された事情があったのであろうか」と言われた。
 

5.丙戌(ひのえいぬ)(27日)

 武勲を立てた人々に勅して、その功を褒め、恩賞を賜った。
 

6.九月の己丑(つちのとのうし)の朔丙申(ひのえさる)(9月8日)

 天皇は帰路につかれ、伊勢の桑名にお泊りになった。
 

7.丁酉(ひのとのとり)(9日)

 鈴鹿にお泊りになった。
 

8.戊戌(つちのえいぬ)(10日)

 阿閉(あへ)(伊賀国阿拝郡。三重県上野市付近)にお泊りになった。
 

9.己亥(つちのとのい)(11日)

 名張にお泊りになった。
 

10.庚子(かのえね)(12日)

 倭京(やまとのみやこ)(飛鳥)にお着きになり、嶋宮(しまのみや)にお入りになった。
 

11.癸卯(みずのとのう)(15日)

 嶋宮から岡本宮にお移りになった。この歳、宮殿を岡本宮の南にお造りになり、冬にそこにお移りになった。これを飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)という。
 

12.冬十一月の戊子(つちのえね)の朔辛亥(かのとのい)(11月24日)

 新羅の客人金押実(こんおうじつ)らを筑紫で饗応した。その日、客人のひとりひとりに禄物を賜った。
 

13.十二月の戊午(つちのえうま)の朔辛酉(かのとのとり)(12月4日)

 武勲を立てた人々を選んで冠位を加えることとし、それぞれ小山位(しょうせんい)以上の冠位を賜った。
 

14.壬申(みずのえさる)(15日)

 船一隻を新羅の客人に賜った。
 

15.癸未(みずのとのひつじ)(26日)

 金押実らは帰途についた。この月に、大紫韋那公高見(だいしいなのきみたかみ)が薨(こう)じた。