久留倍官衙遺跡公園

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暦法

シリウス暦

 ギリシャの歴史家ヘロドトスの言葉に「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」というのがあるが、これはナイル川が毎年のように氾濫して、上流から運ばれてきた肥沃な土が大地に堆積し、その土地に種を蒔くことで、古代エジプトに繁栄をもたらしたのです。エジプトはナイル川が運ぶ肥沃な土のおかげで壮大な文明国家を築いたのでした。
 古代エジプト人は、次第にこの氾濫が毎年同じころに起こることに気が付いたのです。この周期性と天体の運行を観測することが重要となり天文学の基礎となりました。大いぬ座のαのシリウスは、全天21の1等星のうちで最も明るい星で−1.46、この星を観測することで、ナイル川の氾濫の時期をおおよそ予測できるようになりました。そして、紀元前4000年前頃に、エジプト人は恒星シリウスの観測から、増水の始まる日から翌年の増水開始の日までの日数を数え上げ、1年が365日であることを知っていたと考えられています。
 

ユリウス暦

 古代ローマでは紀元前7世紀から太陰暦をもとに、1ヶ月を29日、1年を12ヶ月、1年が355日の暦を使っていましたが、地球の公転周期とのずれが生じてきたため、前400年ごろから隔年に22~25日の閏月を入れて調整するようになりました。その運用は神官にまかされていましたが、前1世紀ごろには実際の季節と暦との間に約2ヶ月のずれが生じてきました。そこで、共和制ローマの最高神祇官であるユリウス・カエサルは、前46年、エジプトのアレキサンドリアで行われていました太陽暦を採用し、365.25日を1年とし4年ごとに閏年をおく、いわゆる「ユリウス暦」を制定しました。実際の季節とほぼ一致するこの方式はローマ世界で広く用いられ、キリスト教の多くの宗派が採用し、ヨーロッパを中心に広く採用されました。
 

グレゴリオ暦

 1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改定して制定しました。352年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教の最初の宗教会議を、古代都市ニカイアで開催し、復活祭の日を決定する必要上、春分の日を毎年3月21日と定めました(復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われる)。しかし、当時はユリウス暦が用いられていたため、1582年には実際の春分の日は3月11日なっていました。そこで第一回宗教会議な決議をまもるため、グレゴリウス13世は1582年の10月5日から14日までの10日間を暦日から除き、将来的にこのようなことがおこらないようにグレゴリオ暦を制定しました。ユリウス暦に対して新暦と呼ばれる場合もあります。
 ユリウス暦の考え方は、400年間に100回の閏年をおいてその年を366日とするものでした。これに対して、グレゴリオ暦では97回の閏年を置き、400年における1年の平均日数を365日+97/100日=365.2425日とするものです。この数字は、実際に観測によって求められる平均太陽年に比べて26.821秒長いことになります。
 日本では、明治5(1872)年12月2日の翌日からグレゴリオ暦を採用し、明治6年(1873)1月1日としたため、明治5年は28日間短くなっています。これは、この時点では明治政府は太陰太陽暦を用いており、かつ月給制をとっていましたので、旧暦のままだと、明治6年には閏月が入り、一月分の給料が必要になってしまうからでした。
 

十干十二支

 中国をはじめとする漢字文化圏で行われていた十干と十二支を組み合わせ、60を一周期とする数え方。暦や時間、方位などに用いられました。日本では干支(えと)と呼び、現代では十二支のみを指すことが多いですが、本来は十干十二支を指すものです。十干は甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・康(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)の10種類で、これに陰陽五行説(木=もく、火=か、土=ど、金=こん、水=すいの自然界の構成要素を陰=いんと陽=ように分けてせつめいするものです)を兄・弟を付加して表現しました。つまり、甲(木の兄=きのえ)、乙(木の弟=きのと)丙(火の兄=ひのえ)、丁(火の弟=ひのと)、戊(土の兄=つちのえ)、己(土の弟=つちのと)、庚(金の兄=かのえ)、辛(金の弟=かのと)、壬(水の兄=みずのえ)、癸(水の弟=みずのと)となります。十二支は子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)の12種類からなり、これらを組み合わせて最小公倍数の60年で一回りし、それを還暦と称しました。
 
 
 

久留倍官衙遺跡と暦

 久留倍官衙遺跡は、壬申の乱や聖武天皇の東国行幸にゆかりの深い遺跡です。では、これらを暦の面からみるとどのようなことが分かるでしょう。
 

①壬申の乱と暦

 壬申の乱は天武天皇元年(672)六月壬午(22日)に挙兵を覚悟し村国連男依らを美濃に遣わして、不破道を塞がせました。甲申(24日)には大海人皇子を中心に、吉野を逃れて東国へ向かいます。その後伊賀を抜け、25日には鈴鹿を越え、土砂降りの雨に祟られて、三重郡では寒さのあまり、屋(いえ)一間を焼いて暖をとっています。翌、丙戌(26日)には迹太川のほとりで天照大神を望拝し、朝明郡すなわち郡家に入っています。
 これを暦の面からみるとどうなるでしょう。出発の6月24日はユリウス暦ではちょうど一か月遅れに7月24日となり、グレゴリオ暦ではさらに3日遅れて7月27日となります。土砂降りにあって三重郡に入った日は、今の暦で7月28日、桑名で雷雨にあっているのは7月30日、現代でいうと梅雨明け直前の豪雨にあっているのでしょう。
 また、美濃に使いを遣わせた壬午の日は、陰陽道で出行(出発)や行吉事(挙兵)に吉日とされる日で、あえてこの日が選ばれた可能性が高いのではないでしょうか。
 なお、天武天皇の即位前紀には「男盛りにいたりて雄々しく・天文・遁甲をよくし」とあって、名張の横河に到らんとする時に黒雲が広がった際には式(式盤:奇門遁甲の占いで用いられる道具)で占いを行い「天下ふたつに分かれる祥なり。しかれども朕ついに天下を得るか」といった事実とも良く符合します。因みに、壬申の乱の前に吉野の宮へ入られたのも壬午の日で、まさに出行に吉日と判断された可能性は高いでしょう。
 

②聖武天皇の東国行幸と暦

 聖武天皇は、天平十二年(740)十月壬申(19日)に「造伊勢国行宮司」任命したことに始まり、同月壬午(29日)に伊勢に向けて出発しています。途中、頓宮(とんぐう)(仮宮)や郡家(ぐうけ)(郡の役所)に宿しながら、十一月乙丑(2日)に は伊勢国の一志郡河口の頓宮に入っており、翌丙戌(3日)には大神宮に幣帛(へいはく)(神に奉献する布・絹・紙などいろいろな供物のこと)を奉っています。また、丙午(23日)には朝明郡に到っています。
 行幸に出立される10月29日は現在の暦(グレゴリオ暦)で11月26日、神宮に幣帛を奉ったのは11月30日、朝明郡郡に到ったのは12月20日となります。
 ここで注目したいのは、出発の日に壬申の乱の美濃への使いの派遣の日と同じ壬午の日が選ばれていることです。過分に、曾祖父大海人皇子の壬申の乱の行動を意識してのことでしょう。さらには、神宮に幣帛を奉った日の干支の丙戌は、大海人皇子が迹太川で天照大神を望拝した日に一致してします。
 鈴鹿郡の赤坂の頓宮から不破の頓宮までの行幸路は壬申の乱のそれに全く一致しており、強く大海人皇子を意識した行幸だったことでしょう。
 この行幸には、貴族たちのほかに騎兵400騎を従えた大規模なものでしたが、壬申の乱で大海人皇子は不破より先には進んでいないことから、そこで騎兵を解き、京に帰らせていることからも、聖武天皇の壬申の乱に対する強い意識がみて取れます。