HOME >> 郷土史への扉 2011/9月上旬号
2010 YOKKAICHI
郷土史への扉
市内の文化財などをたどりながら、郷土の歴史を紹介するコーナーです。
今回紹介するのは、鵜の森公園にある市指定史跡「浜田城跡」です。
浜田城跡は、近鉄四日市駅近くの鵜の森公園にあります。城は、赤堀城主田原景信(たはらかげのぶ)の三男忠秀(ただひで)によって文明2年(1470)に築かれました。田原氏はもともと上野国(こうずけのくに)赤堀庄(今の群馬県伊勢崎市)に住んでいましたが、応永年間(1394〜1428)に景信(かげのぶ)が伊勢に移り、四日市の栗原(今の赤堀)に城を構えたとされます。景信は、長男の盛宗(もりむね)を羽津に、次男の秀宗(ひでむね)を赤堀に、三男の忠秀を浜田に配しました。これが世に言う赤堀三家です。
忠秀は東海道を城の東に移して交通の便を図り、また、四日市庭浦(よっかいちばうら)港)と市場の整備を行いました。その結果16世紀の中ごろには市場も整い、「四日市」と称され地名の起源となりました。
十六間四方白星兜鉢
(じゅうろっけんしほうしろほしかぶとばち)
『伊勢軍記』によると、羽柴秀吉(はしばひでよし)が織田信雄を攻めた戦いで忠秀の孫の元綱(もとつな)の子の重綱(しげつな)が討ち死にし浜田家は滅亡したということです。
現在、浜田城跡は鵜の森公園となり、その一隅に城主を祀(まつ)る鵜森神社が建てられ、神社には俵藤太(たわらのとうた)(藤原秀郷(ふじわらのひでさと))愛用という国指定重要文化財「十六間四方白星兜鉢(じゅうろっけんしほうしろほしかぶとばち)」が所蔵されています。今も、社殿(しゃでん)の西・南・北には土塁(どるい)が残り、城の名残を残しています
問い合わせ先 …社会教育課(Tel 354-8240 Fax 354-8308)
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