四日市市は平成29年8月1日 市制施行120周年を迎えます

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四日市市制施行120年の歩み-History-

1897
明治
●1897(明治30)年 8月1日
全国で45番目の市として市制施行
●1899(明治32)年 5月
関西鉄道の名古屋・湊町(大阪)間が全通
●1899(明治32)年 8月
四日市港が開港場に指定される
明治時代の四日市港
明治時代の四日市港
1912
大正
●1914(大正3)年 6月
三重紡績と大阪紡績が合併し、東洋紡績設立。本社を四日市に置く
●1922(大正11)年 3月
伊勢鉄道新四日市駅(現在のJR四日市駅) 開業(写真)
伊勢鉄道新四日市駅(現在のJR四日市駅)
1926
昭和
●1930(昭和5)年 1月
海蔵、塩浜の両村と合併。以降、昭和16年(5町村)、昭和18年(2村)、昭和29年(10村)の合併を経て、昭和32年の合併(2村など)で楠町を除く現在の市域まで拡大
昭和6年に竣工 した市の庁舎(浜町)
昭和6年に竣工 した市の庁舎(浜町)
●1936(昭和11)年 3月
新港完成を祝う「国産振興大博覧会」開催
博覧会会場(千歳町)の配置図
博覧会会場(千歳町)の配置図
●1945(昭和20)年 6月
空襲で市街地が焦土となる
●1952(昭和27)年 2月
四日市港が特定重要港湾に指定される
●1955(昭和30)年 8月
四日市高校が全国高等学校野球選手権大会で優勝
諏訪新道での優勝パレード
諏訪新道での優勝パレード
●1959(昭和34)年 9月
伊勢湾台風襲来
●1963(昭和38)年 10月
ロングビーチ市と姉妹都市提携を締結
●1968(昭和43)年 10月
四日市港とシドニー港が姉妹港提携を締結
●1972(昭和47)年 7月
四日市公害裁判で原告側全面勝訴の判決
●1975(昭和50)年 9月
三重国体が市内で開催される
夏季大会の開会式(中央緑地水泳球技場)
夏季大会の開会式(中央緑地水泳球技場)
●1980(昭和55)年 10月
天津市と友好都市提携を締結
1989
平成
●1992(平成4)年 4月
平成4年4月4日を記念して「オープンバザール四日市」を開催(現在の「エキサイト四日市・バザール」)
●1997(平成9)年 8月
市制施行100周年に合わせて四日市ドームがオープン(写真)。記念式典を開催
夏季大会の開会式(中央緑地水泳球技場)
●2005(平成17)年 2月
楠町と合併。人口が30万人を超える
●2008(平成20)年 4月
保健所政令市へ移行。市制施行111周年を記念しての事業が年間を通じて行われる
●2015(平成27)年 3月
四日市公害と環境未来館がオープン

古来から続く人の営み

本市の歴史は古く、市内各地には旧石器時代の石器や弥生時代の集落跡、そして奈良時代の地方の役所跡と見られる久留倍官衙遺跡など、さまざまな時代を通して人の営みを伝える遺物、遺構が数多く見つかっています。

地域の交通・物流の要地であったことから、室町時代には定期市が開かれるようになり、これが「四日市」の名の由来といわれています。そして、江戸時代には東海道五十三次の43番目の宿場町となり、参勤交代や伊勢参宮など、人・物の往来がますます活発化しました。また、海上交通においても天然の良港を拠点に多くの回船が行き交い、陸海の交通要地の商業のまちとして大いに繁栄しました。

こうして歴史をたどると、古くから先人たちがこの地につくってきたにぎわいが、今の四日市市のルーツにあることに気付かされます。

室町時代の定期市の様子(博物館常設展の展示)
室町時代の定期市の様子(博物館常設展の展示)

商業のまちから工業都市へ

市制が施行された120年前、日本は近代国家へと歩み出していました。その縮図のごとく、四日市ではさまざまな近代産業が興り、発展を遂げます。この礎となったのは四日市港の存在でした。  明治6年から17年にかけ、稲葉三右衛門が私財を投じて行った修築事業を契機に、四日市港は、国際貿易港へと発展していきます。明治32年に伊勢湾で最初の開港場に指定されると、紡績をはじめ、製糸、漁網、製陶など、さまざまな産業の輸出拠点となっていきました。

一方で、明治32年には関西鉄道(現在の関西本線)の名古屋・大阪間が全通します。こうして陸海の交通に恵まれた四日市は、商業のまちから工業都市へと変遷していくことになります。

進むまちづくりと市域の拡大

市制施行以来、四日市港はさらなる整備が進められ、綿花の輸入港としてもにぎわいを見せていきました。また、明治末期から昭和初期にかけて道路や河川の整備、大規模な土木事業が行われ、市街地の開発も進みます。こうした市勢の進展に対応し、昭和5年から32年にかけて、段階的に町村合併を繰り返して市域を拡大していきました。

人口の変遷

市制施行当時約2万5千人だった人口は、町村合併を経て順調に増加。1944(昭和19)年には12万7千人近くになりますが、戦災で1945(昭和20)年には25%近く減少し、10万人を割り込みます。戦後は高度経済成長とさらなる合併を経て急激に増加。2008(平成20)年にピーク(約31万5千人)を迎え、その後は微減傾向で今日(約31万2千人)に至ります。

人口の移り変わりグラフ

環境先進都市、そして
 21世紀の産業都市モデルへ

戦後、臨海部に形成された石油化学コンビナートは、高度経済成長を遂げた日本経済の象徴であり、本市に飛躍的な発展をもたらしました。しかしその反面、環境への十分な配慮を欠き、大気汚染や水質汚濁などの大きな公害をもたらすことになりました。

公害の解決に向け、全国初の硫黄酸化物の総量規制など、行政と企業のパートナーシップによる先駆的な取り組みが行われました。さらに、昭和42年から平成22年にかけて、企業による環境設備への投資やインフラの整備など、官・民あわせて約9,800億円の巨費を投じての環境改善が着実に進められてきました。

そして、産業においては、内陸部の半導体製造企業の立地をはじめ、臨海部における高付加価値製品への転換や研究開発機能の集積などにより、近年は、地域全体が時代の最先端を行く高度部材供給拠点となっています。

四日市市空撮