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四日市公害について

昭和30年代、日本はいまだ戦後の復興期で経済的に豊かとはいえませんでした。そこで、四日市の港を埋め立てて石油化学コンビナートという大規模な工場の団地がつくられることになりました。 最初、町の人たちは喜びました。四日市市は全国有数の石油化学工業都市として歩み始めたのです。林立する煙突からもくもくと立ち上る煙も経済復興のシンボルでした。

ところが、予測できなかった問題がたくさん起こってきました。それが、公害です。工場からの煙で空気は汚れ、排水が流された海に住む魚からは異臭がしました。海から風が吹くと悪臭が漂い、騒音にも悩まされました。さらに、コンビナートの近くでは、ぜんそくの患者が増えました。



しかしながら、当時の法律ではぜんそくの原因を特定して補償を受けることができませんでした。そこで、ついに患者の中の9人が工場を訴える裁判を起こしました。5年かけて続いた裁判は、住民の後押しもあり患者側の勝訴で終わりました。

この裁判によって工場の煙が四日市ぜんそくの原因と認められたのです。 また、裁判では工場だけでなく、国や県、市の責任も指摘されました。 この結果、国では患者の救済のための法律が整備されることになりました。企業においても、これまで以上に、工場での公害を防止する技術の研究や開発が行われるようになりました。

このような市民、企業、行政の様々な努力により、四日市公害はひとつの山を越えました。 四日市に住む私たちは、このように様々な環境問題に立ち向かっていくことができます。 四日市公害の経験を振り返ることで、もう一度四日市市の環境を見つめなおし、自分達の身の回りから、環境に配慮した行動に移していただければ幸いです。



 

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