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四日市公害について

[ いろいろな公害問題 ] 東橋北小学校六年生

 私の家は四日市市高浜町三区にあります。
・・・中略

 また、こんなこともありました。あすは、たくさんのしけん、またきょうはたくさんの宿題があるという日のことです。いっしょうけんめい勉強をしていると、ゴーと大きな音がして、とても頭に入りません。

 あとでわかったのですが、その日はボイラーのテストで、じょう気を出し、そのため、音が大きかったとのことです。音といえば、このような音は別として、このころ毎日毎日音がなり、私が遊んでいる時、勉強をしている時、お手伝いをしている時など、しゃべっても、大声を出さなければ聞こえないと言うような調子です。

 夜でも、9時すぎになると、大きな音とともに、地しんのような音がドンドンとするたびに家がゆれるので、こわくなって外へ出たということもありました。
・・・略(1963年11月)

[ 私たちにひ害をあたえる工場 ] 東橋北小学校六年生

 わたしは、工場を建てるのは、四日市の発展のためにはたい切なことですが、そのためにわたしたちにひ害をあたえるのは、ひどいと思います。

 この前、わたしのおかあさんが、あまりひどいにおいがするので、おかあさんは、「ゲー、ゲー」といって、まいかけで口をおさえて、なみだをだしていました。わたしはそのおかあさんのすがたをみて、しゃくで、しゃくでたまりませんでした。

 そしたら、その日、わたしたちの学校で、勉強していたら、朝とおなじにおいが、「ぷーん」とにおってきました。だからわたしは、ポケットからハンカチを出して、はなと口をおさえました。わたしだけでなく友だちも、わたしとおんなじことをしておこっていました。わたしは、よけいにくやしくなりました。

 ただでさえ、家でなやまされているので、学校だけでも、そんなにおいをわすれようと思っているのに、学校まで、そんなへんなにおいをさせなくてもいいと思います。 しかも、そのにおいというにおい、音という音、あまりにもひどいと思います。これからもするのだから、工場のほうでも、わたしたちのことを考えてほしいと思います。(1963年11月)

[ いろいろな公害問題 ] 東橋北小学校六年生

 前略・・・また、音以上にいやなのは、いやなにおいです。プロパンガスからふき出たガスのようなにおいと、ねずみがくさったようなにおいがまざったような、ほんとうになんとも言うことができないようなにおいなのです。

 そのにおいをかぐと、頭がいたくなってきます。気分も悪くなり、もっとひどくなると、ハキケをおこしたりします。

 食事の時など、せっかくお母さんが作ってくれた、ごちそうもまずくなってしまいます。このような、音やにおいのひ害は、学校にいてさえおこります。勉強中に大きな音がして、勉強のじゃまになったりします。また、いやなにおいがしてくるので、いそいでまどをしめるというふうなことで、勉強がしにくくなるということもたびたびあります。・・・後略(1963年11月)

[ 黒いけむりにつつまれた私たちの町 ] 東橋北小学校三年生

 毎日毎日、黒いけむりにつつまれながら私たちはくらしております。 私がようちえんへ行くころまでは、夏はかいすいよくじょうでした。8月のたなばたさんの時は、花火が上がり、ていぼうを犬をつれてさんぽしたことなど、おもいうかんできます。

 それがきょねんのなつから、くいうちがはじまりました。おかあさんにきくと、海をうめたてて大きな火力はつでんしょができたり、せきゆのこうばがたつのだと、おしえてもらった。

 そのときは私も小さかったので、大きなこうばがくるのだと、むねをふくらませてきたいしておりました。学校でも、ともだちに、うちのうらへ大きなこうばがたつのだと、とくいで話しをしたことをおぼえております。

 それがいま大きなりっぱなこうばができ上がりました。それとともに、くらい毎日がつづくようになりました。

 おかあさんがせっかくきれいにおせんたくしても、みんなきいろいしみがついておちません。そのしみが私のブラウスについたときは、ほんとうににくらしかった。

 それからというものは家の中にせんたくものを入れたり、おかあさんのくろうがよくわかります。けむりの方がくをみて、今日は西風だからせんたくものを出してもだいじょうぶと、うちの中のものがいっしょになっておかあさんに協力するようになりました。

 ある時、学校でべんきょうをしていたら、へんなにおいがしてきた。先生もおもわずへんなにおいがするねとおっしゃった。 家にかえっておかあさんにきくと、今日はとってもガスのにおいがして、ノドがカラカラになり、あかちゃんなんか死にそうになったのだといっていた。

 私もこのごろ、ノドがよわいせいか、ノドがいたくてたまらない。このままだとみんながそうなってしまうことだろう。一日でよいからきれいな空気をはらいっぱいすってみたいきもちでおります。 夏休みには、いなかのおばあちゃんのところへ行ってきれいな空気をみんなの分まですうてきて、私たちのよごれた町の空気を入れかえてやろうと思っている。
(1963年11月)

塩浜小学校三年四組「学級通信」の作文
はじめに-担任

  三年生になって早や一ヵ月がたち、組がえをした学年でしたが、子どもたち同士もすっかり三年生の生活に慣れた様子です。

 天皇誕生日をかわきりに、5月に入りますと連休があり、いろいろ計画があると思います。夕飯のおりなどに、憲法や子どもの日などを話題にして、一家そろって話しあうことも大切なことだと思います・・・。

 いままで、南勢(三重県南部)ですごした私は、公害問題とはおよそ無縁で、時々目にする記事も、無関心な態度で見てきましたが、この学校へ来て、空気清浄器、毎日の乾布まさつ、うがいなど、公害に対する健康管理と、考えてもいなかったことに直面しました。

 そこで、少しでも現状を知るために、公害について作文を書いてもらいました。 それによると、かぜがなかなかなおらなかったり、せきが苦しいくらいでたり・・・・自分は健康でも、家族の人にそんな人がいたり、みんな大なり小なり、被害をうけていることがわかりました。

塩浜小学校三年四組「学級通信」の作文
[ こうがい ]

 ぼくたちの学校のそばには、こうがいをだすこうじょうがいくつかあります。

 日本で一ばんこうがいのはげしいところは四日市です。こうがいはくさくてたまらないときがたくさんあります。こうがいの中に、目に見えないくらいのつぶつぶが、風にふかれてとんできます。そのつぶつぶをすうと、からだのよわい人はひじょうにのどがはしかくてくるしみます。こうがいがひどいと天気がぼうっとして、とおくがはっきりみえません。

 つぶつぶやけむりのようなこうがいのほかに、ありゅうさんガスというこうがいがあります。このありゅうさんガスが一ばんからだにわるいそうです。いま、しおはまびょういんに、にゅういんしているこうがいかんじゃや、また、おうちにいるこうがいかんじゃたちは、みんなこのガスで、まい日、くるしんでいます。

 この間、ぼくのおとうさんのよく知っている人が、しおはまびょういんで死にました。この人はこうがいで、声が出なくなってお話ができなくなったそうです。

 ぼくたちは、こうがいのひどい日の学校のゆきかえりには、マスクをはめたり、うがいをしたり、かんぷまさつをして、こうがいにまけないからだをつくろうといっしょうけんめいです。 けれども、こうがいのほうが、ずっとつよいです。ぼくは、よくかぜをひいて、のどがいたいです。せきもよくでます。

 こうがいは、こうばがださないようにするのが一ばんよいことです。

 そして、みんなが元気にあそんだり、おしごとができるすみよい四日市に早くしてほしいです。(一部略)

塩浜小学校三年四組「学級通信」の作文
[ こうがい ]

 わたしの学校のよこに、こうじょうがあります。このこうじょうには、いっぱいえんとつがあり、いろんなタンクがあります。

 わたしたちは、毎朝、かんぷまさつがあります。冬になるとかけ足があります。きょ年、かけ足で、日本一しゅうというだいでかけ足をしていました。

 学校で、外がくさくなると、ほうそうで、「くさいので、まどしめて、せいじょうき(空気清浄器)をつけなさい」といわれます。

 えんとつが多いので、すぐくさくなります。えんとつから、すごい火がでるときもあります。(以下略)(1969年5月)

[ 私は公害患者です ] 橋北中学校ニ年生

 公害、公害とさわいでも、コンビナートは知らん顔、真っ赤な炎を出して美しく飾っているつもりなんだろうか。

 公害を出している人は公害がこわくないんだろうか。そんなはずがない。こわいにきまっている。ただ、強がりを言っているだけだ。

 あのコンビナートのために、たくさんの人が死んでいき、たくさんの人が苦しんでいる。公害病「ぜんそく」という、いまいましい病気のために六〇人近くの人の命がなくなっている今、なお公害はひどくなるばかり。

 私も五歳のころから発作がおこりだした。年々悪化しはじめ、小学校3年生の秋、公害患者に認定された。

 発作がおこると一晩中うなりずめ、「苦しい」と自分に言いきかせることで耐えているようなものだ。一〇時間も一五時間もすわったままで動けず、何度も足を組みかえる、せきこむと汗がふつふつとにじみ出る・・・・・。 小学校三年生は育ち盛りなのに、アバラがくっきりと姿を見せ、体力のつくひまがない。父母をよく困らせた。私がうとうと眠りだすとまたせきこみ、涙が出て顔がくちゃくちゃになった。

 体育の授業が一番嫌いだった。とくに走るのが。でも走らないと、なぜかみんなが私を白い眼で見るようで、それがたまらなくいやだった。だから無理をして、母に叱られてもなるべくみんなと区別されないように努めていた。

 中学二年ともなれば身体も大きくなり、体力もついて抵抗力が強くなるから、発作の数は減ってきた。とは言え、やはり食欲がなく、というより苦しくて食物がのどを通らない。それに発作の数が少なくなったほうが、一度の苦しみ方は今までの苦しみの二倍も三倍も大きい、死んだほうがよっぽどましだと思うのだが、私には死ぬほどの勇気もない。

 マラソン大会でも、あの人は走らないからいいな、と思ってる人もいると思う。でも私だって好きこのんで走らないわけじゃないのに・・・・・。

 今、人工的に「ぜんそく」の発作をおこさせる薬があるそうだから、その薬を四日市中の人々がみんな飲んで、私たちの苦しみを味わってもらいたいと思う。そうしたら公害がどんなに悪いことか、よくわかるだろう。

 四日市の人々が願うべきことは、一つしかないはずだ、・・・・ただ公害が一日も早くなくなることだろう。

 去年一年間で、公害認定患者に認定されたのが一番多かった のは、私たちの学校がある橋北地区だったそうだ。

 昔は住みよかった、と母が言う。昔は美しかった、と父もよく言う。今は汚れてしまった四日市・・・・。これからどうなるんだろう。これ以上よごれたらどうしようもなくなるんではないだろうか。今でさえ、元に戻すのは無理なのではないだろうか。もうこんなになってからは、何を言ってもコンビナートは受けつけないのではないだろうか。(1972年8月)

((株)はる書房「くさい魚とぜんそくの証文」(S.59)より)

 

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