江戸時代に入ると、それまでわが国で扱われなかった風俗が登場します。そこに描かれた風俗は、安土桃山時代のスタイルを継承した自由闊達な描線と深みのある色面で構成されています。当初は、祭礼などの俯瞰的大構成作品でしたが、次第に数人の男女を題材とした人物本位性を強め、ついには女性の単独像となり、いわゆる美人画・美人版画の成立へとつながって行くのです。
江戸時代中期に入ると、幕府をはじめとして諸大名、武家の官僚化が促進され、武士の芸術パトロンとしての覇気が失われていきました。それに比して上方では、新興商人層の躍進や、高度に洗練された美的伝統をもつ公家衆を中心に新たな創造の活気を維持し続けていました。そのような環境の中で、幕府御用の狩野派に代わって創造性を独占したのが、京都画壇と奇想と称される画家達でした。
伊勢国は、畿内の隣接地として、また紀州藩の飛び地であった松坂や、地の利を活かした桑名に豪商が出現することとあいまって、上方文化の影響を受けつつ個性的な文化圏を形成していきました。そのような中、曾我蕭白、月僊らの拠点のひとつとなっていったのです。また、本草学の先進地でもあった伊勢国は、その写生技法としての京都四条派の受容も看過できません。
東海道と伊勢参宮道の分岐点である日永の追分は、四日市のイメージとして格好の素材でした。その場所は、参宮道を示す鳥居、灯籠、道標、饅頭屋などのランドマークに事欠きません。これら伊勢参宮名所図会にも描かれたイメージは、江戸の人々にとって、もっとも身近な四日市像であったと思われます。
巨匠北斎が描く東海道に対抗して、新しい四日市のイメージを作り上げたのが広重でした。彼の東海道絵処女作である保永堂版では、四日市を風と橋で表現しました。以後、「橋」は四日市の重要なイメージとなってゆくのです。
富田の名物「焼き蛤」。富田は間宿あいのしゅく で、現在は四日市市であるが、当時は桑名藩領でした。富田と四日市という隣り合った地域で、蛤と、その蛤が出す気だと考えられていた蜃気楼とが、その地域のイメージとして相乗効果を発揮して、人々に受け入れられたことでしょう。
四日市の蜃気楼は、すでに東海道名所図会にも描かれていますが、広重以後の浮世絵師に、もっともよく取り上げられた題材です。蜃気楼イメージから湊イメージへの展開もみられ、また、蜃気楼から分離して湊風景だけを描くものもあります。
浮世絵のもう一つの潮流である役者絵が、街道と結びつくとどうなるのでしょう。今日のアイドル写真集もロケ地が重要です。当時のアイドルスターが、その土地に縁のある役を演じて登場する。ほかにも関わりのある力士や出来事(人物)などを描いたたシリーズも作られました。中には苦しいこじつけもありますが、「なるほど」と納得できるかどうかは、作者の機知と観者の教養如何ということになるのでしょう。
名所図会、北斎、広重らによって生み出された典型からいかに抜け出し、新機軸を打ち出すかということが、あとに続く絵師たちの悩みでした。しかし、その中から生み出された新しい泗水のイメージは、斬新ではありましたが定着することは無かったのです。
享和二年(1802)に始まった『東海道中膝栗毛』の刊行は、大ベストセラーとなりました。もとより、東海道浮世絵は、この刊行の成功と無関係ではありませんが、膝栗毛をモチーフとした浮世絵が出版されるのは、東海道浮世絵が定番シリーズとなってからです。
ある程度確定してきた泗水のイメージは、東海道双六や絵図などにも応用されます。ここからは、泗水のイメージがどのように定型化されたのか、読み取ることができます。また、それは泗水のイメージの人気投票でもあるのです。