四日市市楠歴史民俗資料館bg-header.jpg

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本郷地区について

 旧庄屋岡田邸が立地している本郷地区は、楠町由来の地でもあり、楠(くすのき)一族が城主であった楠城(くすじょう)の城跡周辺が、三重県の埋蔵文化財包蔵地にも指定されており、中世から近世において最も繁栄した場所であります。
 また、楠歴史民俗資料館及び周辺には、本郷地区に点在する史跡案内看板が設置され、資料館には本郷草の標本などが展示されています。

本郷にある主な史跡

楠城址

 楠城の築城は、南北朝時代の正平24年(1369年)。初代城主は、信濃国諏訪の豪族、諏訪十郎貞信(正信)でありました。二代、三代と諏訪氏の城主が続いた後、応永19年(1412年)、四代城主に楠正威が入り、以後、楠一族がこの城を引継ぎました。楠町という町名の由来は、この楠氏によるといわれていますが、『国津』が転じて「クス」になったという説もあります。
 楠正威がこの城に入ってから170年余、この城は楠一族の厳しくも悲しい戦いの歴史を見つめ続けました。すなわち、四代城主楠正威は、南朝の復興を目指したものの比叡山で戦死、時代が下って六代城主楠正忠のころからは、新興の織田信長と戦い、七代正具は、最後まで信長に抗して大坂石山合戦で討ち死にし、八代正盛は、秀吉に反抗して落城、のち天正12年(1584年)に処刑されました。 城跡近くに「丸の内」という地名が残るものの、今、城跡には史跡を示す標柱と看板の他、往時を語るものはありませんが、明治の末、城跡に残っていた老松に代わって植えられたクスノキが100年余を経ており、楠一族が命運を共にした楠城の城跡にふさわしく天をつく大木になっています。
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泰応寺観音堂跡

 楠氏の守り本尊である聖観音菩薩を祀った堂跡であります。
 楠正成公の子孫が、足利義詮の許しを受けて、この地に伽藍を建立したと言い伝えられていますが、現在、本尊は、本郷の来教寺に安置されています。

楠村神社

 楠城趾の一部を占める「風呂屋」と呼ばれる地区にあり、城主一族から崇められていたと言われており、残されている棟札で、最古のものは慶長20年(1615年)と記されており「…楠名草村安穏…」と書かれています。
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大工村(だいくぐら)跡

 華台寺の七堂伽藍の建立のため大工・左官職人などが、この地に住んで奉仕したと言われることから、この地名が残ったと伝えられています。

八幡社跡

 もとは、華台寺の一部にあったが、明治42年(1909年)に楠郷惣社に合祀され、昭和2年(1927年)に楠村神社に祀られました。

華峰山海宝院 華台寺跡

 由緒書によれば、推古天皇の頃、聖徳太子に託して七堂伽藍を建立させたと言われており、このあたりは一面、梅林に覆われ、芳香に満ち満ちていたので、華峰山と称したと伝えられている。のちに、織田信長の兵火により焼失し、明治6年(1873年)に廃寺となりました。現在、本尊は本郷の来教寺に安置されています。

攜松山 来教寺

 室町時代前期の創立といわれ、永正3年(1506年)までは天台宗でありましたが、安政の大地震で崩壊しました。明治時代に修理され、さらに昭和12年(1937年)に本堂が再建されました。
 本尊の阿弥陀如来立像のほかに廃寺となった泰応寺・華台寺の本尊も安置されています。
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大円山 正覚寺

 正平16年(1361年)に鎌倉建長寺派の白圭により開山され、楠城主の菩提寺でもあります。織田信長の兵火に焼かれ、のち松平定綱の命により再建されましたが、第二次世界大戦のとき、焼失。その後昭和27年(1952年)に復興されました。観世音菩薩・地蔵菩薩・毘沙門天・楠城主の墓・楠正成神鏡などが祀られています。
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本郷草(ホンゴウソウ)

 八幡社跡に自生していたものを、明治35年(1902年)に牧野富太郎博士が発見し命名しました。本郷草は、数センチの多年草で葉緑素を含まず、紫色又は帯黄色で、花の先端は光って、背面に反っています。標本は楠歴史民俗資料館に保存・展示されています。