丹羽文雄記念室

 
四日市市立博物館常設展示室3階にある丹羽文雄記念室を紹介します。記念室は、文化勲章受章作家で、四日市市名誉市民の丹羽文雄(1904~2005)の業績を、永く伝えていくことを目的として、平成18(2006)年12月9日にオープンしました。
 

 
丹羽文雄は、明治37(1904)年に四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺(そうけんじ)に生まれ、宗教家として歩むはずでした。しかし、文学への志を断ちがたく、生母をモデルとした「鮎」の好評を機に昭和7(1932)年、家出のかたちで上京しました。昭和10年代(1935~1944)には、時代を代表する中堅作家としての地位を築き、その後、半世紀にわたって常に第一線の作家として活躍しました。特に、戦後は数多くの話題作を次々と発表しました。
まず、昭和22(1947)年に、『厭(いや)がらせの年齢』を発表、その表題は流行語ともなりました。現在大きな社会的課題となっている高齢者の問題をいち早く取り上げたものでした。
昭和30(1955)年前後に相次いで発表した『靑麥』と『菩提樹』では、住職であった父と自己を見つめることで浄土真宗における救いを模索し、昭和41(1966)年に完成した『一路』によって『歎異抄』的世界を描破しました。それと同時に、浄土真宗の寺院に生まれたことの意味を確かめるように、『親鸞』の執筆に向かいました。そして、その後十数年間にわたって、『親鸞』、『蓮如』と書き継ぎ、ついに宗教文学の頂点を示したのでした。
その間、芥川賞をはじめとする各種文学賞の選考委員、日本文藝家協会理事長兼会長などを歴任し、文壇の発展のみならず、文学者のための社会保険制度の創設など社会的な面でも尽力しました。
また、私費を投じて同人誌「文学者」を発行し、後進の育成にも努めました。丹羽によって育てられた文学者が、戦後文学の一翼を担ってきたといっても過言ではありません。
このような丹羽文雄の作風と人柄を、多くの人々に知っていただくことで、丹羽文学を愛する人々の輪が、より大きく広がっていくことを願っています。