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2004/5月下旬
2003 YOKKAICHI
特集 2003年度 四日市市人権作文
部落差別を考える   富田中学校 3年 渡邉 須美恵
 わたしは、中学校に入って初めて「部落差別」というものの存在を知りました。それも、実際に差別を目の当たりにしたことで知ったのではなく、人権学習を通じて知りました。
 部落差別の勉強をはじめた当初、わたしは、勉強することに対して、反感を持っていました。勉強しなければ、一生「部落差別」の存在を知らずに過ごしたはずだと思ったからです。そう思えるほど、わたしにとって部落差別は遠い存在でした。
 そんな考えを持ちながら勉強してきたわたしは、ある日の授業で、部落差別と闘っているAさんの講演を聞きました。これがわたしにとって初めて部落差別に直接向き合った日だと思っています。
 Aさんが受けた部落差別の体験談を聞いて、わたしは震えました。部落差別のなかには、学校でのいじめや、職場、結婚での差別など、さまざまな差別が入っていたのです。
「部落差別は差別がたくさん入った、恐ろしい箱なんだ。箱がある限りなくすことができる中身もなくならない」
 わたしはそう思いました。そして、部落問題の重大性に気づきました。いじめなどの差別の原因がすべて部落差別にあるわけではありません。しかし、部落差別がなくなれば、他の差別は減るはずだと、わたしは考えました。
 それでは、どのように部落差別をなくせばよいのでしょうか。Aさんの「小さな差別をなくさなければ、部落差別もなくならない」という意見にも、なるほどと思ったのですが、今は、部落差別のことのみにしぼって考えようと思います。
 授業のなかで、差別をなくすには正しい知識が必要だということを学びました。授業を重ねるごとに、わたしの当初の気持ちも変わり、勉強することに対する反感もなくなりました。なぜなら、今まで勉強してきて、マイナスになったとは思わないからです。勉強しなければ、きっと、この大問題から目をそらす無責任な人間になっていたと思います。
 ただ、学んだ知識を生かせなければ、無意味だし、悪い方向へつながってしまうかもしれません。それを防ぐためには、しっかりとした勉強をすることと、そして、何よりも大切なのが、一人ひとりが差別に向き合ってよく考えることが必要だと思います。
 しかし、わたしは、Aさんのあの言葉を思い出すたびに、勉強することの意味を考え直してしまいます。Aさんは講演のなかで、「自分の孫も、その子ども、そのまた子どももずっと部落の子どもだ」とおっしゃいました。理論上はどうしようもない事実ではあります。しかし、「自分が部落だと名乗る必要がある」という言葉に、わたしは戸惑ってしまいました。そして、部落を伝えていくことの意味がわからなくなりました。なぜ伝える必要があるのでしょうか。なぜ名乗る必要があるのでしょうか。「知らない」ということは、決して逃げているわけではないと思います。後で知るほうが受けるショックは大きいと思います。そう考えると、「部落だ」と名乗らないことは名乗ることよりも勇気がいります。つまり、名乗らないことは勇気のある行動だといえます。
 しかし、やはりこれを「勇気がある」というのはおかしいのではないでしょうか。これを「勇気がある」と言ってしまう今の社会はおかしいのではないでしょうか。伝えても、黙っていても、自分が部落だと知っている人は心に重荷を背負うはずです。「部落」と聞いて反応してしまう人がいるから、こういうことになるのではないでしょうか。
 わたしの理想は、「自分は部落の人だ」と認識しなくてもよいような社会です。その社会をつくるためには、わたしたちの世代が正しい知識を身につけ、「わたしは部落です」と名のらなくてもよい環境をつくることが大切だと思います。そのためには、やはり現実は部落差別について勉強しなければなりません。だから、わたしはそれについてもっと勉強していきたいです。
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