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四日市公害訴訟

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判決後の報道
 
 

判決後の報道から…

 



「学校病欠率、今なお格差ー四日市」
「今日もスモッグと悪臭」「直接交渉で青空を」
「金やない、子どもの将来に」「夜、カルテもつ病院守衛」

・・・判決後一ヶ月の報道です。


 判決は出たものの、病気がすぐ軽くなるわけでもなく、夜、ぜんそくの発作をおこし救急で運ばれる患者は毎夜たえませんでした。

 この病院では、秒を争うほどの発作をおこす可能性のある重症のぜんそく患者のカルテをあらかじめ、毎晩守衛室に置いて、一刻でも早く手当てしようと知恵をしぼっていたのだといいます。

 3年後の県の調査では「四日市港、やはり死の海、海底生物は皆無/県博物館などが調査」

(昭和50年)・・・なお、道は険しかったのです。





判決の意義

 四日市公害裁判は、昭和の日本の人々に、経済の発展も大切だが、皆の健康をおろそかにしてはならない、という原点を確認する裁判だったと言えます。

 いままでの法律では取り締まれないところも、考え直していこうということになりました。

 そこで工場の人々はお金をたくさんかけ、有害なものを出さない研究、また設備を作ったりしました。

 国では、新しい法律や決まりも作られました。当時は、世界で一番厳しい決まりを作ったと言われています。四日市公害裁判が公害裁判の原点だといわれているのはそのためです。



判決の後

 判決によって、新しい法律や決まりを国や県・市が作ったり、工場から有害なものを排出しないための研究が進められましたが、判決が下った直後にそうなったわけでなく、その後数年の技術改良の努力で、ようやくいろいろな汚染が改善されました。企業も多額のお金をこれに費やしていきました。

 市や県の斡旋でスタートした患者のための医療費などの支払いをする財団も、活動を始め、患者救済も一歩を踏み出して行きました。





 


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